The Legend of Tazio Nuvolari Part 3

 1914年、第1次大戦が勃発した。Nuvolariは、徴兵されて一兵卒として前線に赴いた。しかし、敵と撃ち合うことはほとんど無かった。もっぱら、士官たちの軍用車の運転手となっていたからだ。
 1917年、無事復員すると、幼馴染の娘 Carolina Perinaと結婚した。翌年4月には、長男の Giorgioが生まれた。
 こうなれば、少年時代のように、スピードを楽しんでばかりはいられない。Nuvolariは生活のために遊ぶのを諦め、Bianchi自動車販売に専念した。
 この頃には、既に、イタリアの Bianchi、FIATなどの他に、フランスの Citroen、ドイツの MERCEDESというような欧州各国のクルマが、イタリア国内で販売されていた。戦争終結と共に、自動車レースも再開され、戦前以上の観客を集めるようになった。クルマの性能は著しく向上し、レースが一層エキサイティングなものになったからであろう。

 自動車販売の仕事の途中で、Nuvolariは、時々、モーター・レースを見物する機会があった。
 土埃をあげて疾走する2輪、4輪の群れ……。そこには、限界ギリギリのスピードで勝敗を争う迫力があった。その迫力に圧倒された彼は、自分がいままで楽しんできたスピードなんぞ、子供騙しに過ぎなかったことを知らされるのである。
 込み上げてくるレースへの渇望。しかし、自動車レースは危険なスポーツであり、いつ大怪我を負うか、死ぬかもわからない。
「もし自分が死んだら、後に残った妻や息子は……」
 家族のことを考えて、諦めてみたが、毎晩夢に見るのはレースのことばかりだった。終いには仕事も手につかなくなってきた。
 ある日、Nuvolariは恐る恐る妻に訊いてみた。
「僕はレースに出場したくて気が狂いそうなんだ」
 すると妻はあっさりと答えた。
「かまわないわ。私は、あなたがスピード狂だと知りながら結婚したんだから」



 Nuvolariのレース人生は、モーター・サイクル・レースから始まった。4輪の自動車よりも2輪のモーター・サイクルの方が、金がかからないというのが理由だった。
 最初の数レースは、調子が出ずに不本意な結果だったが、徐々にレースの駆け引きを覚えるに従って、めきめきと頭角を現し、イタリア国内のレースで優勝を重ねるようになった。
「やっぱりお前は、ただのスピード狂ではなかったよ」
 叔父の Giuseppeは、喜んで応援したが、Nuvolariは、モーター・サイクル・レースが、どこか物足りなく感じはじめていた……。