1957 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 7 レース直前に明かされたフェラーリの不正
レース当日の1957年3月23日は快晴で夜が明けた。凍てつくアメリカ北東部からわざわざやって来るスポーツカー・フリークにはフロリダは天国のように思えたことだろう。トラックでやって来て野営する者達は、用意周到にトイレットペーパーを持ち込んでいた。
午前10時のスタートに間に合うよう、見晴らしの良い場所を求めていた彼らは、ゲート前に長い行列を作っていた。
午前8時には関係者が入場し、レースに参加するチームのメカニックはエンジンやサスペンションの最終チェックに取り掛かっていた。
午前8時半、ドライバーはピットの前を行ったり来たりして気が落ち着かない様子。
午前9時には関係者がピット・エリアを歩き回り、不正な侵入者が居ないか確認し始めた。
Ferrariと Maseratiのメカニックがエンジンを始動。短いクランキングの後に両車は会場に響く雄叫びを上げた。Fangioはエンジンの轟音が鳴り響く中、最初のステアリングは自分が握ることを相棒の Behraに伝えているようだった。メカニックたちは、ル・マン・スタイルのスタート方法を採るこのレースのために、所定の位置にマシンを並び始めた。この当時のレーサーは、観客のような陽気なムードには支配されてはいなかった。モーター・スポーツは未だ紳士のスポーツであり、多くの場合、友達ではなく良きライバルとしてお互いを尊重していた。 観客の盛り上がりは最高潮で、手に負えなくなりそうな様子だった。前年のレースでは開会式のマーチング・バンドが演奏を投げ出して、ドライバーを取り囲むという事態が発生していた。
Renault Dauphineの周りには小さな人だかりができていた。3台の 845cc(レース最小の排気量)Renault Dauphineの傍で女性ドライバーがプレス向けにポーズをとっていたからだ。Fangioよりも明らかに魅力的な被写体であったことは事実である。
Renault Dauphineの隣には Colin Chapmanによって持ち込まれた、4台のワークス Lotus 11が並べられていた。商才逞しい Chapmanは革新的なレース資金調達方法を考えて Sebringに参加していた。参加した4台は事前にアメリカの顧客に販売されていたのだった。購入した顧客は57年の Sebringまでクルマを取りに行かねばならなかった。しかもレースが終わるまでクルマは引き渡されることはない。レース開催中はあくまでも“Factory Lotus”の所有であり、レース後にお客の所有車となるのであった。
レース開催まで残り数分で、主催者の Alec Ulmannはドライバーズ・ミーティングを行った。「あなた達は経験豊富なドライバーであり、説明の必要はないでしょう」と前置きしたあと、彼は初心者を見つけてレース事前の注意を説明した。少々の笑いの後、彼は #11と #12 の Ferrari 315 Sが排気量を誤って申告していることを指摘した。2台のマシンの実際の排気量は 3800ccであり、3442ccではなかったのだ。この不正な申告を事前に知り、その事を恥じていたドライバーの Collins, Trintignant, de Portago と Mussoからは歓迎のブーイングと口笛が吹き荒れたのだった。