1957 Sebring 12-Hour Grand Prix Part2 GMによる情報操作


 エレガントなブルーメタリックの Corvette Super Sportに加えて、パワーを抑えたスタンダード・エンジンを搭載し、ボディに大きく‘P’と描かれた練習用 Super Sportが存在した。ボディはマグネシウム合金ではなくただのプラスチックで見た目は普通の shevy、他のライバルと比べるとみすぼらしく‘mule’(ラバ)と名付けられていた。ところが Duntovが乗ってみると、そいつが速いものだから皆が驚いたのなんのって。他のドライバーも乗りたがることしきりだった。

 しかし、別のドライバーが貴重な1台限りのマグネシウムボディを持つコンセプトVetteを乗り回してレース前に壊すリスクを考えると、渋々‘mule’に乗せることを許可せざるを得なかった。Maseratiチームの練習走行が終わったことを知ると、 DuntovはJuan Fangioと Stirling Mossに社交辞令として練習用 Super Sportを運転することを許可した。



 驚くべきことにたった2ラップ走っただけで、前年に英国人の Mike Hawthornが Jaguarによって記録した 3:29.7という記録を Fangioがあっさりと破ってしまったのである。3ラップ目には、たったいま破った記録を更新(3:27.4)してしまった。チームメイトの Mossも負けてはおらず、1956年に Corvetteが出した記録を打ち破る 3:28のタイムを出した。レース当日の SSドライバーに予定されていた John Fitchも‘mule’に乗って飛び出したが、彼らの記録に数秒ほど肉薄したが、記録を破ることは出来なかった。

 Fangioがピットに戻った時、彼は恍惚としているようだった。もう少し挑戦させてくれていれば「あと2秒は記録を縮めていたよ」と主張した。まさに偉大なるドライバー、史上最高の技術を持った男であった。
 Sports Illustrated magazine誌によれば、レースの前の週にGMは Fangioに対し、Super Sportでレースに出場しないかと誘っていたという。彼はあまりにも新型でテストも十分に行われていないことを理由に、その誘いを断り Maseratiに居残ることを決めたという。同様の誘いは Mossも受けていた。このことに関して Fangioは一切自伝に書き記すどころか、この年の Sebring12時間レースじたいに一言も触れてはいない(彼のマネージャーが数行だけ Mossのエピソードに関して触れているだけだ)。彼にとって後味が悪かったのであろうことが想像される。

 Duntovはこの事実を知られないよう報道管制を敷いた。アメリカ人が記録を破ったのならともかく、ライバルの Maseratiのドライバーが記録を更新したのだ。しかも自社の Corvetteに乗って。これほど不名誉なことはない。

 しかし、雑誌や新聞は‘未確認情報’として Corvetteが記録を破ったことのみ報道した。もちろんそれが Fangioであることは伏せられていた。これを知った大勢のスポーツカー・ファンが大挙して見に来ることは決定となった。初めて Corvetteが優勝するかもしれないレースだからだ。GMによる情報操作は成功しつつあるように見えたのだが……。