1957 Sebring 12-Hour Grand Prix Part1

 1957年、Sebringは6回目の12時間レースを開催した。第2次大戦後、スポーツカー・レースの人気の高まりにつれて、Alec Ulmannが独自に開催してきたレースの人気も大きくなっていったのだった。

 当時のアメリカでは多くのスポーツカー・ファンにとって Sebringはル・マン24時間に次いで人気のあるレースだった。実際、Sebringは国際自動車連盟(FIA)公認の世界スポーツカー選手権で唯一ポイントが得られるアメリカで開催されるレースである。その事により Sebring12時間は北米で唯一のプレミア・レースとして発展し、スポーツカー・ファンは見過ごすことができないイベントとなったのである。

 このレースが旅行を含めたフロリダ州の宣伝となると考えた当時の知事は、57年の3月18〜23日を国際スポーツ・カー・レース・ウィークと称して宣伝した。

 フロリダ州の誰もが国際スポーツ・カー・レース・ウィークに大興奮となった。地元新聞の‘Daytona Beach Morning Journal’のスポーツ編集長 Bernard Kahnは自身のコラムにて、4度のGP世界チャンピオンとなった Juan Manuel Fangioや英国の若きエース・ドライバー Stirling Mossの抜きん出たドライビング技術を‘芸術家’と表現していた。また名も無い無数のカフェ社会のスノッブな人間が1日だけカッコイイ「スポーツマン」となる日だとも書いた。これは明らかにデイトナ近辺に住み働いている、オンボロ車に乗った多くのNASCARファンを意図的に挑発したものだった。

 フロリダ州知事だけではなくNYやデトロイトの人たちも、このレースの重要性に気づいていた。新聞や雑誌、電話会社、ドイツのGPドライバー Wolfgang von Trippsも注目していた。

 複数のメディアはGMの CHEVROLETが4台の Corvette(内2台は改良型)を投入して、欧州勢による世界スポーツカー選手権の支配を打ち破る挑戦を試みるだろうと報道していた。これは革新的な軽合金のボディになるだろうと言われていた。

 GMは純粋に商売の対象として Sebringに注目していた。‘日曜日に勝利して、月曜日に売りまくる’ことを信条としていたGM関係者は3月の初頭にサーキットに現れ、いくつかのテスト走行を行い帰っていった。その内の1台はマグネシウム合金製の Chevrolet Corvette Super Sport(SS)であり、軽量アルミニウム製ヘッドを持つ 4,638ccのエンジンを搭載。量産型よりも30psもパワーアップされ、総重量も約450kgも軽量化されており、当然のことながらGMは勝つことを望んでいた。

 GM Corvetteチームのドライバーに予定されていた Paul O’Sheyは Super Sportまたは“space-frame Vette”と称された改良型のパワーウェイトレシオは素晴らしい値で4速すべてでタイアを焦がすことが出来ると豪語していた。

 このコンセプト・カーは現 Director of Performance for General Motorsであるところの Zora Arkus-Duntovによるものである。後に“Father of The Corvette”と称されたその人であった。