偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part2


Caracciola won the opening race at the Nurburgring, June 18, 1927 in the 26/170/225 hp Mercedes-Benz S

 1927年6月、あの Nürburgringサーキットが開設された。172のコーナーをもつ1周27.6kmのこのサーキットで18日にレースが行われた。Caracciolaが新型の 26/170/225hp Mercedes-Benz S modelを操り優勝しただけでなく、MERCEDESは2位3位にも入賞、表彰台を独占した。1周 172のコーナーを駆け巡るレースは、ドライバーにとって過酷なものであり、Caracciolaの靴底は熱で焦げ、足には火ぶくれができるほどであった。また、チームメイトの Christian Wernerはキックバックが酷く、暴れまわるステアリングを押さえ続けたことにより左腕を脱臼しながらも2位でフィニッシュしている。監督の Neubauerは、オリジナルのコーヒーをベースとした精力ドリンク“Racing Special”を飲ませ、ドライバーを元気づけた。

 翌1928年、Caracciolaは Mercedes-Benz SSにて5つのレースで優勝、特にドイツGPでの優勝により、彼の名声はドイツ国内で揺るぎないものとなった。また、このレースは Neubauer監督が考案した旗とピットボードによりドライバーにレース状況を知らせるという、画期的な通信方法が採用された史上初のレースともなった。それまでのレースは、ドライバーはひたすらに走るだけで、自分が何位を走っているのかも知らずにレースを行っていたのである。この年の彼の賞金獲得金額の総計は 10万マルク*1におよび、一財産を築きあげた。MERCEDES-BENZの代理店経営も順調であった。

 1929年は、新型の 27/180/250hp SSKでレースを続けた。モナコGPでは3位に入賞。8月の RAC Tourist Trophyでは土砂降りの雨が続く中、平均速度 117.2km/hで優勝。雨天に強いドライバーであることを印象付けた。
 
 そして運命の 10月29日、ニューヨーク株式市場における大暴落に始まった世界恐慌は瞬く間に欧州に飛び火、ドイツ国内でも株価は売りの一点張りで大暴落。銀行も多くが閉鎖され、自殺者が相次いだ。失業者の数は急上昇し、大衆は明日の生活への不安にかられていた。この経済恐慌のなかで、大衆の心理を巧みに捉えた政党が台頭した。国家社会主義ドイツ労働者党、所謂ナチスの登場である。彼らはベルリン市議会選挙に於いて 13の議席を獲得、一躍躍進することになる。*2Mercedes-Benz世界恐慌の影響により 1930年シーズンは一切のレース活動を凍結した。これにより Caracciolaの収入は絶たれ、不況下で高級車が売れるわけもなく、経営する MERCEDES-BENZショールームも閉鎖された。その一方で Alfa Romeoは 撤退したMercedes-Benzをよそにサーキットを暴れまくった。Baruzziや Nuvolariといったイタリア人のライバルが台頭してくるのだった。Caracciolaは個人所有の SSKで Mille Migliaに出場、クラス優勝を果たす。翌年、同レースにて歴史的な優勝を果たした経緯は過去の記事を参照願いたい。
http://d.hatena.ne.jp/gianni-agnelli/20111102/1320159613

 1931年の初夏、Caracciolaは生涯忘れられない体験をしている。Daimler-Benz社の販売部長に呼び出された彼は、特注された MERCEDES-BENZ 770Kカブリオレの納車を頼まれた。納車が遅延したため顧客が大そうご立腹で、もしここで国民的英雄の Caracciolaが自ら運転して納車に現れれば、顧客に対し面目がたつというものだった。
 彼はおとなしい人間だったが、この話には切迫したものを感じ取っていた。それにしても、その有名人で厄介な顧客とは、いったい誰なのか? 販売部長は一瞬口ごもりながら言った。「名前は…… Adolf Hitlerだ」
 2日後、防弾ガラスと鋼板張りの特殊ボディーがにぶい光を放つ MERCEDES-BENZ 770Kがミュンヘンナチス本部に Caracciolaの運転で届けられた。天井の高い部屋に入ると、そこには有名なチョビ髭と垂れ下がったひと房の髪の毛の男が座っていた。ヒトラーは彼に Mille Migliaでのムッソリーニの印象とレースの様子を話すように諭した。
 クルマの説明のために下へ降りて、Caracciolaが運転席に座ると、ヒトラーの運転手が小さな声で彼に注意した。総統はどんな場合でも時速 30km/h以上で走ることはないのだと。
 ヒトラーは自分が所有するミュンヘンの高級アパートにクルマを走らせるよう彼に言った。彼らが到着すると、ヒトラーの姪 Angelika Maria "Geli" Raubalが新車を見せるため呼び出された。Caracciolaはヒトラーの姪の姿をちらりと見ただけであったが、納車の数か月後に新聞記事を見て驚くこととなる。ミュンヘン警察により彼女が自殺したことが報じられたのだ。それはある種の陰謀めいたものが感じられ、Caracciolaは畏怖した。



Mercedes-Benz 770K cabriolet*3

 1931年のドイツGPは Nürburgringで行われることとなった。金融不安で開催の6日前には国立銀行が門戸を閉ざし、ドイツ国内のすべての銀行で取り付け騒ぎが起こった。その憂さを晴らすかのように10万人の観客がドイツGPに押し寄せた。 Nürburgringの名物コーナー Karussellは、その当時まだバンクのない平坦なヘアピンカーブであり、どんなに上手いドライバーでも 50km/hに落とさざるを得なかった。そこで Mille Miglia優勝に貢献した同乗メカニックの Wilhelm Sebastianは、イン側にある側溝がタイア幅よりも狭いことを確認し、溝をなぞらせながらアクセルを全開にすると 60km/hで走れることを発見、Caracciolaは実戦でこのテクニックを駆使し、より軽量な Bugattiを操る Louis Chironの猛追を退け優勝した。
 レース後、その溝はアスファルトで埋められ、今ではそのコーナーは Caracciola - Karussellと名付けられている。



Rudolf Caracciola's SSK taking victory in the German Grand Prix in 1931.

*1:1928(昭和3)年当時の邦貨換算で 48,000円。

*2:無知な大衆が恐ろしい思想を持った政治家を民主的な選挙により当選させたのである。その姿は、今日、わが日本で繰り広げられている橋下氏や石原氏の行動に熱狂する大衆を思わせるものがある。

*3:同型のセダンは昭和天皇御料車として購入されている。