偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part1

 
 Otto Wilhelm Rudolf Caracciola、一般的には Rudolf Caracciolaで有名なドイツはレマーゲン出身のレーシング・ドライバー。彼は今日のF1グランプリにあたる、戦前〜1950年に開催された European Drivers’Championshipを3度獲得している。また European Hillclimbing Championshipにて3度優勝も果たしている(内2度はスポーツカーで1度はGPマシンで)。所謂 MERCEDES-BENZの Silver Arrowsの時代にドライバーとして活躍、速度記録にも挑戦している。

 Rudolf Caracciolaは 1901年1月30日にドイツのレマーゲンという田舎でホテルを経営している両親の間に生まれた。Caracciolaは幼いころから自動車に興味があり、14歳の誕生日にはレーシング・ドライバーに成りたいと強く願っていた。第1次大戦中に初めて“年老いた 16/45 Mercedes” を運転した彼は18歳で自動車運転免許を取得する。第1次大戦後 Caracciolaは学校を卒業する。彼の父は息子が大学に進学することを願っていたが、父亡き後の Caracciolaはアーヘンの Fafnir automobile factoryに見習い工員となる道を選んだ。

 1922年、まだ見習い工だった身分で Caracciolaはレースに出場、その年に開催された Avus race(4位、クラス優勝)と Opelbahn raceで優勝した。その後、アーヘンの小さなバーでベルギー占領軍の将校と乱闘騒ぎを起こした彼はドレスデンに移り住み、人形を製造する1人きりの街工場の代表となった。

 1923年6月に、彼はまだレーシング・ドライバーであった Alfred Neubauerと出会っている。この時 Neubauerは Porsche博士が設計した名車 SSKの第1号車をテストしている最中であった。ドライバーの新しい補充員を希望してやってきた Caracciolaは推薦状を持参したのだが、その時の印象を Neubauerは「ベビーフェイスの青年に多くの注意を払うことはできなかった。まったくの青二才をどんなふうに扱ったらいいのかとまどい、ちょっと苛々した気持ちだったのを覚えている」と自伝に記している。それ以降 Caracciolaは、Daimler-Motoren-Gesellschaftにセールスマンとして入社、日曜日に時折開かれるレースとヒルクライムに出場することを許された。 Berlin ADAC (the principal German automobile club) raceで優勝するなど、その成績は良かったが、しかし Targa Florioが近づいてきたので、この22歳の新入りの優勝はほとんどを人目を惹かなかった。翌1924年、Teutoburgerwald raceに優勝、他数回のクラス優勝を達成した。そして未来の妻となる Charlotte、愛称 Charlyに出会っている。


Mercedes 24/100/140 hp

 1925年、Caracciolaは Mercedes 24/100/140 hpを操り8つのレースで優勝。そして1926年、彼を一躍有名にした German Grand Prixが開催される。それは Avusサーキットが開設されて以来、初めての国際的な大レースだった。40人ものエース・ドライバーが、多彩な国々から参加した。しかし Mercedesは San Sebastián Grand Prixへの出場が決定されており、ドイツGPには出場しなかった。
  Rudolf Caracciolaは3日間の休暇を取り、Unterturkheimの Mercedes工場にアポなしで取締重役でレーシング・ドライバーのZailerに会い、ドイツGPに参加させてくれるよう説得した。果たせるかな Mercedesは Caracciolaにクルマを貸与し、費用も負担することに同意したが、あくまでも Caracciola個人による出場であることを確約させた。これは彼が失敗したとき会社が損害を被らないための保険であった。
 レース当日、Zailer取締役と Porsche博士がスタンドに応援に現れた。並み居るベテラン・ドライバーの前で Caracciolaの姿に注目する観客はいなかった。
 ドイツ皇太子がいる貴賓席の前でフラッグが振られた、その瞬間、轟音を立てて皆スタートしたのだが、 Caracciolaのクルマは動かず止まったままである。観客の目は Caracciolaに集中する。静寂の中、緊張の汗を流しながら再スタート。エンジンは目覚め飛び出した。その間60秒の貴重な時が失われていた。


1926 July 11, German GP at Avus

 3ラップまでに大型のNAGに乗った Christian Rieckenはかなりのリードでトップを走っていた。Caracciolaはスタートの遅れを取り戻してはいたが、まだかなり後方を走っていた。
 ところが5ラップ目に激しい雨がサーキットに降り注いだ。路面は鏡面状態になり、当時のタイアのウェット性能の低さが操縦性の悪化に拍車をかけた。そんな雨の中激しい追い上げで Rieckenを抜き、1位を爆走していたプライベート参加の Adolf Rosenberger*1は横滑りしたまま北カーブにあるタイムキーパー小屋に激突、 Rosenbergerと同乗メカニックは重傷を負い、小屋の中の1人が死亡、2人は大けがを負った。
  Rieckenは再びトップに戻った。そして Caracciolaは雨にもかかわらず8週目までに3位に浮上、ラップタイムの新記録も樹立していった。当時はピットからサインする方法が確立されておらず、彼自身は何位を走っているのか知る由もなかった。ただひたすら激しい雨の中を爆走したのである。
 タイア交換のために Rieckenがピットインした際、 Avusサーキットで観戦していた50万にもおよぶ群衆は、このドイツGPのトップを爆走している無名の若いドライバーに注目した。しかし、次の周回でエンジン不調でピットインを余儀なくされる。プラグ交換のため、貴重な2分間が過ぎて行った。
 しかし、失われたタイムは 158km/hという最速ラップタイム更新で取り戻せた。Rieckenが18周目にタイア交換で2度目のピットインをした時、#14の白い Mercedesは、操縦している Caracciola自身が知らないうちに再びトップとなった。彼はゴールラインを越え、嵐のような喝采を受けた。喜びに沸く Zailer取締役と Porsche博士の握手に迎えられたとき、初めて Caracciolaは初めて挑戦したグランプリで優勝を勝ち取ったことを知ったのだった。激しい雨の中の絶妙なハンドルさばきは、後に彼をして“Rainmaster”と賞されるようになるのである。


1926 German GP at Avus, Rudolf Caracciola wins with Porsche designed Mercedes Monza with average speed of 135 km/h over the 392 km distance (20 laps).

 Avusサーキットでの劇的な勝利で、一躍全ドイツ国民の英雄となった Caracciolaは、その年の9月に、ベルリンの高級店街にある Daimler-Benz *2ショールームに優勝賞金の 17,000マルク*3を投資し、後年自動車レース界で Charlyと呼ばれ愛された、ベルリンの裕福なレストラン経営者の娘 Charlotteと結婚した。翌 1927年には投資したショールームを買収し、MERCEDES-BENZの代理店となる。賞金は Caracciolaに経済基盤の安定を与えた。しかし、それでも彼はレース活動を続けるのである。

*1:後に彼は Porscheが会社を設立した際の創立者の一人となった。

*2:Caracciolaが優勝した1926年、世界初のガソリン自動車を発明した Karl Friedrich Benzの会社と内燃機関のパイオニア Gottlieb Wilhelm Daimlerの会社が合併して Daimler-Benz AGが発足した。MERCEDES-BENZが自動車ブランド名であることは、あまり知られていない。

*3:1926(昭和元)年の邦貨換算で 7,160円。サラリーマン大卒(早慶)初任給が 80円だった時代の 7,160円である。