Goodwood Festival of Speed 2011 SPORTS PROTOTYPES Part5


1970 CHAPARRAL-CHEVROLET 2J
V8気筒 OHV 7600cc 680ps/7200rpm
 2H の失敗に失望した Jim Hallは、新たなダウンフォースの追及を求め、画期的なマシンを製作することになる。正式には 2Jと称されたマシンは“Sucker Car”“Vacuum Cleaner”などのニックネームで呼ばれることになる。66年の 2Eに取りつけられた巨大なウィングによりダウンフォースを得るという手法は、F1を始め瞬く間にレーシングカーの設計に影響を及ぼしたが、2Jでは空気抵抗を増すことなくダウンフォースを得るという画期的な手法を Hallは考えたのである。Rockwell社のスノーモービル用2ストローク・エンジンによって後方に備えた巨大なファンを回し空気を吸い出す、これにより車体の下部に低圧の空間が形成され車体は路面に押し付けられるというものだ。その為には車体と路面との間が空いていれば、そこから空気が流入して負圧が発生しない。そこでGE製の lexan と称されたポリカーボネート樹脂でスカートを作成してボディー下部を取り囲むこととした。スカートはサスペンションと連動させることにより、路面と接触しないよう工夫も成されている。これによりライバルよりも、ハイスピードのコーナーリング性能を確保することが期待された。
 シャシーは、より高いコーナリングスピードとファン駆動用のエンジンを搭載することによる重量増を勘案し、従来の CHAPARRALの特徴であったFRP製ではなく、軽量なアルミ合金製モノコックが採用されている。開発は CHEVROLETのR&Dによって行われた。 コーナーでの安定のため車幅は拡充され、センターセクションはボディーの外皮として露出することとなり、それまでのボディー・デザインとはかけ離れた美しさの微塵もない(2Hも醜悪なものであったが)ものとなった。軽合金製ビッグブロック・エンジンの排気量は 7.6リッターまで拡大され、680馬力のパワーを3速ATで受け止めていた。
 1970年7月12日、2Jは充分な熟成が成されていないにもかかわらず、Can-Amに投入されることになる。前年の69年末からテストは行われていたが、それがマスコミに知れ渡る存在となると、 Hallはライバルがこの革新的なシステムを真似することを恐れたのである。話題作りとして、ドライバーには前年のF1チャンピオンの Jackie Stewartが選ばれたが、勿論1レースのみのスポット契約であった。彼は多忙のために 2Jによるテストを全く行わずレース当日に初めて乗り込んだのだが、そこはF1チャンピオン、レースでは最速ラップタイムを記録し一時は3位に浮上した。しかし、ファン回転用の補助エンジンがオーバーヒートしピットイン、最終的にはブレーキがフェードしリタイアとなった。Rockwellの補助エンジンはその後も不調が続き、2Jのアキレス腱となっていくことになる。
 Can-Amに参戦する資金難が生じていた Hallは、新しいドライバーとして Vic Elfordを迎えることになる。Road Atlantaに参戦した 2Jは予選で McLaren M8Dを1秒26上回る1分17秒42というトップタイムを叩き出し、それまで24戦連続でポールポジションを獲得していた McLarenの記録を止めた。しかしATの所為でスタートは出遅れ4位に後退。それでも驚異的なコーナーリングスピードで10周目には2位についていた。ところがそこで補助エンジンの不調が発生してピットイン。結果は6位で終わることになる。
 1戦休んで、続くLaguna Seca。予選で Elfordは58秒を切るベストタイムでポールポジションを獲得した。しかしレース直前にV8エンジンのコンロッドが折損し本戦の出場は諦めることになった。そして最終戦の Riverside、2Jは3戦連続のポールポジションを獲得する。しかしながら補助エンジンのトラブルが発生、一度は修理されたが、故障が再発しリタイアとなった。



Vic Elfordはグッドウッドにて 2Jをドライブ、ファンの喝采を受けていた。

 少ない資金でのレース出場と、なかなか結果が出ない 2J、 Hallの悩みは尽きなかった。そこにきて Riversideレース前に McLarenをはじめとする有力チームから 2Jがレギュレーション違反だという声が上がったのである。トラブルの連続で結果を出せなかった 2Jであるが、来シーズンは熟成次第で圧倒的な速さが予想され、他チームがその戦闘力を恐れたのだ。シーズン終了後、FIAは Can-Amの主催者であるSCCAに 2Jは規則違反であることを通告することになる。
 1970年のシーズン終了後、 Jim Hallは全てのレース活動から撤退することを決断する。その大きな理由は、2Jを排除した Can-Amが自由な雰囲気を失ってしまったことによる。片田舎テキサスの若者が描いた夢は理不尽にも潰されることとなった。 Jim Hall、その革新的な発想がレース界から失われたことは、途方もない損失だったと思わざるを得ない。
 ロックンロールはバディー・ホリーの死で終焉を迎えたが、アメリカン・ドリームは CHAPARRALを最後にその輝きは失われたのである。





火星人のブラジャーと呼ばれた黒いカバーはファンを駆動するベルトカバー。ファンの横の3個の円は、上からV8エンジンのマフラー、中央がテールレンズ、下がリアブレーキの冷却用エアインテークである。 
その走行音はメインのV8よりも補助エンジンの2ストロークの方が甲高い音を辺りに撒き散らしていた。