Goodwood Festival of Speed 2011 JAGUAR'S LE MANS CHALLENGERS Part3

 C -TYPE の戦闘力の低下を危惧した JAGUAR は1954年のル・マン垂直尾翼をおっ立てた新型を投入する。 D-TYPE の登場である。
 エンジンは XK−140 をベースにした 直列6気筒 DOHC 2Valve 3442cc 250ps/6000rpm 。マグネシウム合金を用いたセンター・モノコック構造のシャシーで、従来のフレームの概念を全く覆す一体構造となっていた。ごく少量が生産された事は
C -TYPE と同様である。1954年ル・マンにデビューしたは D-TYPE は優勝した Ferrari 375 Plus に僅か5㎞の差で2位となった。
 翌年、1955年のル・マンは最悪の事態となった。コース左端を疾走していた Mike Hawthorn の D-TYPE が急にピットインしようと右側に進路変更をしたため、それを左に避けた Lance Macklin のAustin-Healey 100S に、Pierre Levegh の Mercedes-Benz 300 SLR が、避ける間もなくフルスピードのまま追突、その反動で 300 SLR は時速200㎞/h以上のスピードでスタンドの鉄柱に激突、たちまち火災を起し火の玉となったエンジン部分は空中に吹き飛び、これが観客をなぎ倒し、83名もの尊い人命を奪う大惨事となったのである。しかしレースはそのまま中止されず続行(人道主義に反する処置と思われるが、パニック状態となった観客による事態の悪化を危惧したと思われる)。午前2時、Mercedes-Benz は本社から全車にレース中止の命令が下りレースを退いたため、Mike Hawthorn/Ivor Bueb 組が優勝することとなった。大惨事の原因を成した Hawthorn が優勝するという、実に皮肉な結果となり、せっかくの優勝も JAGUAR にとって後味の悪いものとなった。


燃え盛る 300 SLR の脇に横たわる Pierre Levegh の遺体が無残だ。
また、当時のレースでは、簡単にタイアが悲鳴を挙げているのがわかる。まだまだパワーにグリップが追いついていないのだ。



事故の詳細な原因を追究したドイツの映像。事故後、安全のためのコース改修工事の模様も記録されている。