1966 MODEL CAR RACING Handbook No4


 雑誌「模型と工作 モデルカー・レーシング ハンドブック 第4集」。以前紹介した第1集から半年で4冊目の発行となっている。ほぼ月刊のペースだから、如何にスロットカーのブームが日本を席巻したかがよくわかろうというものだ。しかし、この半年後の夏には急速に終焉してしまう。熱しやすく冷めやすい、当時の日本人の消費動向を示しているとも言えよう。

 記事の中で注目するのが“「カーレースとモデルカー」の楽しみ”というもの。執筆者が当時の日本人レーサー生沢徹氏というのだから驚く。

 私が、モデルカー・レーシングを始めたのは、まだこんなに流行していなかった2年くらい前だった。誰が見つけてきて始めだしたのか忘れたが、式場壮吉ミッキー・カーチス三保敬太郎鈴鹿で練習中に事故で亡くなった浮谷東次郎などのレース仲間でいつしかやるようになった。
 その頃は、今のように色々なものがなくエアフィックスの1/32のいま見るとなんともおそまつなキットしかなかったが、それでも当時はそれで十分に楽しく、夜明け近くまでガヤガヤワイワイとやったものである。
(中略)
 そのうちに本モノの方のレースがいそがしくなってしまい、それどころでなくなり、忘れかけていましたが、ミッキー・カーチスの誘惑にひっかかり、また泥沼にはまりこんでしまいました。
 エアフィックスの小規模のしかなかったのが、後楽園にすごいのができたとかいっている内に、ブームになり雨後のタケノコよろしく、まあできたはできた。その上、車の方も色々といいのが輸入されて、またその早いのにおどろきました。国産でもジャンジャンでき、今では国産の方が早いくらい。それにモーターなんかは日本のが一番いいんだときて、またまたおどろきました。
 むこう製のキットを高いお金出して買っても中に入っているモーターは日本製、なんかバカみたい。時々ミッキーと一緒にさそわれて色々なサーキットを見に行ったが、彼の目つきがだんだん変ってきたと思ったら、買う本も自動車の本でなく、モデルカーの本ばかり。今では品川のボーリングセンターの中にかなり大規模なコースを2つも経営するおやじにまでなる凝りよう。

 ということは、徳大寺有恒氏も大学生の頃から彼らと遊んでいるので、トヨタのワークスドライバー杉江博愛(すぎえひろやす)として、当然スロットカーもやっていたということが想像される。ミッキー・カーチス氏などサーキットのオーナーだったとは驚く。実際、彼は雑誌にて新作のスロットカーの批評なんぞをやっていたようだ。


以下、広告を紹介するが、当時の価格は現在の貨幣価値にすれば約10倍となる。子どもの「お小遣い」は100円ぐらいだったと思われる。

学研のスロットカーというのは、相当に違和感があるなぁ。フェラリーという表記にも時代を感じさせる。いまだにフェラリという日本人もいるようだが。ホームサーキットがいまの貨幣価値で約10万円。まだまだ貧しかった日本には贅沢品だったのがわかる。


トヨタ・スポーツ800に注目。コグレは欧州にも輸出していた。


タミヤの広告デザインは、泥臭さがなくスマートだ。一説によれば、このブームで一番儲けたのはタミヤだったらしい。ブームが去った後、オーストラリアとヨーロッパに輸出して不良在庫をさばいたとか。


タミヤがモデル化した Mclaren ELVA