1957 Sebring 12-Hour  Piero Taruffi


タルッフィが操る“the lightweight Corvette Super Sport”


無冠の帝王としてはスターリング・モスが有名であるが、その元祖がピエロ・タルッフィであることに異論のある方はいないであろう。1923年から、実に37年の長きにわたってレーシングカーのステアリングを握った偉大なるピエロ・タルッフィ。その彼が57年のセブリング12時間レースにGMの招待を受け、“the lightweight Corvette Super Sport”に乗り込むこととなった。
その顛末を、彼は、自著“BANDIERA A SCACCHI”(邦題『ワークス ドライバー』1969,ニ玄社刊)に記している。


 1957年3月19日午前2時、私はアメリカからの長距離電話によって眠りを破られた。まだ充分に眠りから覚めきらぬままに、私はアメリカからの電話の主が、私にセブリング12時間レースでシヴォレー・コーヴェットに乗ってほしいといっていることがわかった。彼はジェネラル・モーターズのお偉方のひとりに違いなかった。最もそのときはこのようなことはちっともわかっていなかった。それでも、私は合衆国への旅行は絶対に断らない主義なので、翌朝パンアメリカン・エアラインのローマ出張所で私を待っているマイアミ行きの往復切符を受け取ったら、喜んで参りましょう、と答えた。2〜3時間後に、パンアメリカンから電話で、予約が取れていることを知らせて来た。このようにして、私は妻とともにマイアミへ行き、そしてそこからセブリングへ回った。セブリングでは、幸いにも世界で一番力のある会社、ジェネラル・モーターズの人たちに会うことができた。この会社のバランス・シートは、イタリアの国家予算と同じくらいの大きさのように思う。私は再びジョン・フィッチ(John Fitch)と顔を合わせた。彼はとてもいいやつだ。私は彼と一緒にジェネラル・モーターズのいちばん新しい頭脳の産物(the lightweight Corvette Super Sport)に乗ることになっていた。これはゾーラ・ダントフ(Zora Arkus Duntov、アメリカに住みついたロシア人のエンジニア)が設計した真新しいマシンで、コーヴェットに似た造りでありコーヴェットのバッジをつけていた。エンジンもコーヴェットであった。しかし、この車には多くの新しい特徴があった。特にシャシーのバネとブレーキに関し新しい特徴があった。
 この車はある方面ではたいへん優秀であったが、もっと軽くそして強力なフェラーリマセラティのスポーツカーと互角に争えるほどではなかった。とはいってもやはりアメリカの自動車工業にとっては立派な力作であった。GMの人たちは恐ろしく熱心だった。彼らはこの車に私たちがどのような意見を抱いているかをたいへんに知りたがった。クーリング系統にちょっとしたトラブルが起きた。特別のダクトをつけることによってこのトラブルは解決できた。GMの最高幹部までが腕をまくり上げて、大勢のメカニックたちと一緒に働いていた。
 最初の出番はジョン・フィッチであった。一方妻と私はピットの上に作られた小さなコントロール・タワーにあがってタイムキーピングを手伝った。最初の2〜3ラップはたくさんの車がいっぺんに通るので、この仕事もなかなか楽ではなかった。だんだんとふるいにかけられたように、おのずと選手たちの間に差が出てきたころ、私はコントロール・タワーを出てピットの後ろのへんをブラブラしながら自分の出番を待っていた。彼らは絶えず情報を私に知らせてくれた。フィッチはよくやっていた。リーダーたちにぴたりとついていた。私は道具がすべて調子よくいっているかどうか調べてみた。ゴッグルが曇っていたので、もう一度ワックスをかけた。まもなく私の番であった。フィッチが数人に追い抜かれていたことを知ったので、どのドライバーがどのくらい彼をリードしているのかを確かめた。メカニックのひとりがすでに彼に“カム・イン”のシグナルを出していて、路面に描かれた小さなシグナルリング用の円の中に立って彼を待ち受けていた。車が100mの所まで来たとき、彼は闘牛士のように、両手で旗を持ってドライバーが行き過ぎないように小刻みにこれを振った。なぜかというと、燃料補給用のホースがあまり遠くまで延びないからだ。
 フィッチは車を降り、ダントフに自分が心配していることを説明した。すると今度はダントフが私に不調の原因に対する彼の見解を説明してくれた。そして1ラップだけ車に乗ってみてくれるようにと頼んだ。私は、私たちの敗北を実感した。かくて私は1万㎞走るところを、10㎞も走らずにレースを終えたのであった!
 私は妻と一緒に、マイアミのどこまで行っても尽きることのないホテルの列やパーム・ビーチに立ち並んだ百万長者の家々や、サイプレス・ガーデンの水上スキーなど、あちこちフロリダを見物して歩くことで自分を慰めた。

タルッフィのコルヴェットはリア・サスペンションの故障でリタイアとなった。

初代コルヴェットは、フェラーリマセラティなどのイタリアン・スポーツカーに対抗したものだが、もともとエンジンのパワーもなく、2速ATという惨めなスペックで世に出されたまがいものであった。もちろん4台参加したGMワークスのコルヴェットは2速ATではないだろうが、結果は12位、15位、16位と1台がリタイアで終わっている。


1957年セブリング12時間の映像。タイトルではファンジオがフェラーリに乗っていたことになっているが、マセラティ450Sの間違いである。