【リビア騒乱】 フィアットを救った独裁者カダフィ大佐

リビア首都、一部で騒乱 衝突で新たに61人死亡

 【AP通信】中東の衛星テレビ、アルジャジーラによると、リビアの反体制デモが拡大した首都トリポリでは20日深夜から21日朝にかけ、治安部隊とデモ隊の衝突で61人が新たに死亡した。激しい銃声が各地で聞こえ、国営テレビ局が略奪され、政府施設が放火されるなどトリポリは少なくとも一部で騒乱状態となったもようだ。
 41年以上続く強権的なカダフィ政権の打倒や民主化などを訴える反政府デモの波は一気に拡大、最高指導者カダフィ大佐に対する包囲網が次第に狭まってきた。政権側は「最後の一人」になるまで戦うと一歩も引かない構え。軍が中立を保ったチュニジアやエジプトとは異なり、容赦ない弾圧を続ける方針だ。
 韓国外交通商省は21日、トリポリ近郊にある韓国企業の建設現場にリビア住民約500人が乱入し、韓国人3人とバングラデシュ人労働者十数人が負傷したと発表した。
 アルジャジーラによると、トリポリ市内では治安部隊の一部がデモ隊に加わる動きも出ているという。第2の都市、北東部ベンガジの住民は、ベンガジは「市民の支配下にある」とし、21日午前は平穏な状況だという。
 厳しい情報統制が敷かれているため、実際の状況に関する情報は極めて限られているが、前例のない規模の犠牲者が出ている可能性がある。




写真の FIAT 500c ビーチカーはイタリア国内で撮影されたものだが、カダフィ大佐*1特注のものと言われている。フィアットのエンブレムが意図的だろうか、隠されていることに注意。

フィアットが第1次オイルショック以降、経営難に陥り凋落傾向に歯止めがかからず、増え続ける莫大な負債の処理にアニエッリ会長が途方に暮れていた1975年、資金を貸そうという男が現れた。リビアカダフィ大佐である。驚くべきことに彼は、当時1500リラだったフィアット株を相場の4倍の6000リラで買うと申し出てきたのだった。


 1976年12月1日にアニエッリ会長から発表された、具体的なリビアフィアットとの融資契約は以下のようなものだった。
リビアン・アラブ・フォーリン・バンクは4億1千万ドルの現金と引き換えにフィアット株10%を取得する。契約には3つの付帯条項があった。ひとつはリビアン・アラブ・フォーリン・バンクが表立って株主として登録されること。二つ目は当該銀行が90億リラで転換社債を購入すること。3つ目は、フィアットに対し、5.75%という当時としては夢のような低金利で、1億400万ドルの融資が行なわれるということである。
 これにより、リビアフィアット取締役会15席のうち2席をあてがわれただけではなく、フィアットの最高決定機関である執行委員会に1人分の席が用意された。リビアは株を所有するだけではなく、経営に参画することとなったのである。
 リビアを取引相手にするということには多くの難問があった。まずはイタリア国内の世論の反発である。1969年にカダフィ大佐がクーデターを起こした際に、在リビアのイタリア人2万人*2は財産を没収され国外追放された経緯があった。しかし、イタリアでのスーパースター的存在だったアニエッリ会長の説得と、なによりも慢性的な財政危機にあったイタリア政府にとって莫大なオイルダラーは魅力的なものだったし、当時議会で3割の議席を占め、勢いづいていたイタリア共産党にとってもフィアットアメリカ資本に頼ることを恐れていた経緯もあった。幸運にも、欧州各国はこの合意を問題視せず認めたのである。
 衝撃の記者会見発表から1週間後の12月8日、アニエッリ会長は、モスクワでカダフィ大佐と会見をした。フィアットは60年代よりソ連とビジネスで密接に関係があり、そのお膳立てはスムーズにいった。カダフィ大佐フィアットには関心がほとんどなく、流暢な英語で反欧米主義を高らかに演説したという。アニエッリはただ会っただけだと記者会見で話しているが、裏ではいろいろな噂が立てられている。内外の新聞はフィアットリビアソ連の3者に密約が交わされたのではと疑った。 フィアットは会社の危機を救うためにリビアの資金が必要だった、リビアソ連に対し武器や原子炉の代金8億ドルの債務があった。そしてソ連フィアットの大型掘削機を欲しがっていた。こうして3者がお互いに利益を得たというのだ。実際、1976年にフィアットソ連から大型掘削機の受注を得ている。
 いろいろ問題はあったが、アニエッリの賭けは成功した。フィアットの株は、リビアとの取引により暴騰、株価は20%も上昇したのである。
 しかし、80年代に入り、フィアットカダフィ大佐との蜜月に終止符を打つこととなる。きっかけは、86年にベルリンで起こったナイトクラブ爆弾事件である。在ドイツ米軍関係者が多く集まるクラブでのテロ行為はカダフィ大佐の指示によるものとして、当時のレーガン大統領は報復爆撃を敢行、カダフィ大佐の私邸も目標となり、大佐の幼い末娘が死亡している。アメリカより事前に空爆を伝えられていたイタリア政府は、リビア空爆を密告し、カダフィ大佐は難を逃れたという後日談がある。
 さて事件当時、フィアットは米海軍にブルドーザー178台を納入する総額790万ドルもの商談を行なっていた。ところが米国内の商敵からイチャモンがついた。カダフィ大佐に資金が流れるのではないかと。アニエッリは北米現地法人を新たに設立し、利益は地元に再投資することで米議会への説得を試みたが、友人キッシンジャーを通してのロビー活動も不発で契約は破棄される。
 リビアフィアットの株を売却してくれれば良いのだが、望み薄であった。ところがカダフィ大佐から、株の売却を承知して来たのである。カダフィ大佐の要求額は30億ドルであった。この時、彼が所有していた株の総数は2億9300万株。当時の時価で30億ドルとなっていた。これはリビアの1年間の国庫収入に匹敵する額であった。フィアットは非公式にこの件をワシントンに打診し、アメリカ政府の承認を得た。フィアットは30億ドルでリビアから株を買い戻した。
 この件で莫大な利益を得たのはカダフィ大佐である。リビアが投資した金は10年で5.5倍にもなったのだ。

*1:正式名はムアンマル・アル=カッザーフィー

*2:イタリアはかつてリビアを植民地としていた。