東京大学航空研究所試作長距離機 Koken Long-Range Prototype Plane


全幅 28.00m
全長 15.06m
全高  3.84m
エンジン 川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量 9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は長距離飛行世界記録挑戦時、不時着した際に発見し易いように両翼が赤く塗られている。

航空研究所試作長距離機、一般には航研機という略称の方が有名な機体。
航研機の基本設計は文部省の支援で東京大学航空研究所にて1932(昭和7)年より始まったが資金不足で頓挫、そこに本格的に軍用機の製造に進出しようとしていた日野自動車の前身ガスデンが製造に名乗りを上げ(会社として全金属製の飛行機を初めて製作することになる)、1934(昭和9)年に同社技術取締役の星子勇を中心に30数人体制で制作を担当した。

ガスデンの取引の関係上、陸軍航空技術研究所がパイロット2名と機関士1名を派遣、1938(昭和13)年5月15日、木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場の1周401.759㎞を周回するコースを無着陸で62時間22分49秒で29周し、周回航続距離10,651.011kmと1万kmコース平均速度186.192km/時の2つの長距離飛行の世界記録を樹立した。
この記録は、日本航空史に於いて唯一の国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録である。




“日野オートプラザに展示されているの航研機の模型”
燃費を低下させる空気抵抗を無くすために操縦席の風防は折りたたみ式で、離着陸時以外は機体左右の窓を見ながら操縦するようになっていた。操縦は困難を極め、パイロットの疲労は相当なものであったろう。余談だがトイレは後部から外に放出していた。着陸装置は手動の引き込み式で展示模型は離着陸時の状態となっている。主翼は布張りで内部に燃料タンクが備わっている。プロペラは旧式の2翅プロペラであることに日本の航空技術の遅れを感じさせる。



川崎ハ-9 Ⅱ 乙型エンジン
水冷 60°V12気筒 42,400cc 700ps/1850rpm
航研機のエンジンは残念なことに純国産ではなかった。BMWエンジンをコピーした川崎航空機製が採用され、それをベースにガスデンの技術で燃費改良がされたのである。
当初、東大航空研究所では航空用ディーゼルエンジン*1を開発し搭載しようと計画していた。しかし開発は遅々として進まず、同研究所の富塚清博士の反対により既に実績のある川崎BMWエンジンの燃費改善に計画を切り替えることになる。少しでもディーゼルエンジンの低燃費性能に近づけるために世界で初めて希薄燃焼(Lean burn)の研究に挑戦し完成させた。希薄燃焼に伴う不整燃焼、排気温度の上昇による排気弁の損傷を防ぐために世界に類を見ない空気冷却弁*2。を採用。ガスデンはこれに協力し、空気冷却排気弁のために冷却空気送風用のルーツ式ブロワーを設計した。


空気冷却弁(上)とガスデン開発のルーツ式ブロワー(下)



ガスデンにて組立作業中の航研機




Savoia-Marchetti SM.75
新聞のトップ記事を飾り、記念切手まで発行された国民的人気の航研機。しかし、その世界記録は短命に終わる。
翌年の1939年に日独伊防共協定の同盟国イタリアが Savoia-Marchetti SM.75 によって約12,000㎞/hの世界記録が樹立されてしまった。SM.75 はアルファ・ロメオ製エンジンを3基搭載、プロペラも3翅であった。

航研機はその後終戦まで羽田飛行場に展示保存されていたが、戦後駐留したアメリカ軍が軍用機と誤認したため他の軍用機同様に廃棄されてしまうという哀れな末路をたどっている。


【関連URL】
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/kouken.html#anchor40764

*1:当時航空用ディーゼルエンジンとしてアメリカのパッカードが開発していたが信頼性が悪く失敗に終わっている。

*2:もっと簡易なナトリウム封入弁を製造する技術が無かったというのが真相であろう。