白洲次郎の愛車 1924, Bentley 3 litre


水冷直列4気筒 OHC 2996cc 70ps/3500rpm 最高速度129㎞/h

1919年のロンドン・モーターショーでエンジン未搭載のまま発表された。エンジンが完成したのが1921年で、顧客に渡すまでに2年もかかっている。1929年まで造られ、総生産台数は1622台。
1気筒あたり4バルブでツイン・スパークの高性能車であり、John Duff と Frank Clement の運転により1924年ル・マン24時間レースにて見事優勝している。
あの Ettore Bugatti をして「世界一速いトラック」と言わしめたクルマであった。

このクルマは1919年から17歳で英国ケンブリッジ大学に留学していた白洲次郎が、大学のレーシングクラブに入会して乗り回していたものである。
祖父が兵庫県知事、父が綿の貿易で巨万の富を得た実業家で、白洲次郎が渡英した先への仕送りが月1万円。いまの貨幣価値に換算すると数千万円にもなる。


ベントレーが3リッターを発売した1921年は、第1次大戦のために戦勝国である英仏の経済は疲弊していた。英国経済のどん底で生まれただけにベントレーの経営は赤字で、常に倒産の危機に見舞われていた。にも拘わらず、ベントレーが次々に新型を発表したのは、キンバリーのダイアモンド鉱山の所有者で大金持ちのウルフ・バーナート(1927年ベントレー社の会長に就任)がスポンサーであったこと。そして忘れてはならない、医師、ジャーナリスト、貴族らと共に“Bentley boys*1と呼ばれるアマチュア・ドライバーの熱狂的な支持があった。こうした熱狂的な支持者のおかげで、ベントレール・マン5勝の大記録を生みだしたのだが、白洲次郎もそれを支えた唯一の日本人であった。
その情熱はベントレーの悲劇の始まりでもあった。時代は創始者 Walter Owen Bentley の情熱を受け入れる余裕が無かったし、個人スポンサーに依存する旧英国的な会社運営はその破綻を促進する条件にすぎなかった。
W・O・ベントレーの情熱は世界恐慌の波に呑み込まれ、ロールス・ロイスにより1931年に吸収合併されてしまう*2
白洲はベントレーの末路を予感していた。
「後方からいかにも古いスタイリングのクルマがくる。それがぼくのベントレーの真後ろに来たとたん、ブーンと追い越していった。R-Rてのは、すごい自動車だな」新婚当時、白洲は新妻に英国の思い出として語っている。

一方、世界恐慌の2年前に日本は金融恐慌の嵐に見舞われ、白洲次郎の実家の会社は倒産してしまう。毎月1万円もの大金を送金した実家を失い、1919年から9年間にもわたった白洲の英国留学も終わりを告げることとなった。1928年に白洲は帰国の途に就いたのだ。
戦後、白洲は故吉田首相の片腕として経済、外交の両面で戦後復興に貢献することとなる。

英国の生活で白洲が学んだ大きなことは“principle”。揺るぎない信条、簡単にいえば「筋を通す」ということだろうか。
「『朕戦いを宣す』の終わりをつけずして、国際社会に信頼を回復することはできない」
昭和天皇終戦後に退位することを求めていた白洲の言葉である。戦争の責任を明確にして、謝罪し、身を退く、それが「筋を通す」ということだったようだ。
GHQの要請により憲法草案が作られたが、日本人が作成したものについて再三「これはだめです」と明言したのも白洲だった。そのどれもが大日本帝国憲法の「天皇神権」が大前提であったからだ。

「残念ながら日本人の日常は“principle”不在の言動の連続であるように思う」
白洲の残した言葉は、残念ながら現在の日本人にも突き刺さる言葉であるように思う。










ステアリング中央にあるレバーは、スロットル・タイミング、ミクスチャー・コントロールを調節するレバー。この頃の高級なクルマにはついている装置。シフトレバーが右についているのに注意。



燃料タンクは裸同然で後に取り付けられている。追突されたら大爆発!? ラッパのようなマフラー・カッターにも注意。ナンバーは白洲が英国時代につけていた「XT7471」が生かされている。






ホーンはこの頃からボッシュ製だ。


*1:白洲次郎ベントレー・ボーイズの一人、Jack Dunfee の店で3リッターを購入している。

*2:ベントレーは生き残りをかけ、ネイピアとの合併交渉を進めていたが、ライバルであるネイピアとベントレーの合併を恐れたロールス・ロイスが偽名を使って1931年に買収した。