イタリアではF1は紳士の教養

今年になって、久々にF1に熱中している。その一番の理由は、今季の日本人ドライバーとして、企業のコネではなく、自分の力でF1のシートを勝ち取った小林可夢偉がいることが大きいし、今年は大乱戦でどこが勝つかわからない、というのもある。

とは言っても、日本ではモーター・スポーツは、未だまともにスポーツとして見られていない。自分でハンドルを握らない国土交通省の役人や警察官僚の天下り組織でしかないJAFがモーター・スポーツを牛耳っている限り、その状況は100年後も変わらないだろう。

それに比べてイタリアではF1が、老若男女問わず、人気のスポーツであることが羨ましい。


 ご承知のとおり、イタリア人は非常にモーター・スポーツが好きです。とくにF1はその頂点に立つもので、多少の浮き沈みはあっても、すたれるとか、人気が衰えるとか、そういうことはここ25年の間には見たことがない。その前もそうだったろうし、今後もこんな感じでいくんだろうと思います。
 日本ではF1に限らず、サッカーでもラグビーでも相撲でも、「今は盛り上がっている」とか「もう流行っていないです」みたいな言われ方をするけれども、イタリアでは新しいものはなかなか出てこないかわりに、F1でもサッカーでもヨットでもスキーでも、この手のスポーツは、日本的な言い方をすれば「ずっと流行ってます」。
 F1のテレビ中継なんか、ずっと同じアナウンサーが担当している。僕がテレビで中継を見始めた頃は若くてさっそうとした響きを持っていた声が、今ではしわがれています。彼はテレビの前はラジオで実況中継をしていましたから、F1の生き字引みたいな人で、「このカーブは50年代には Ascari が…」なんていうふうにやる。今の若い人がまったくわからないような話を、延々としているんです。
 もうひとつ、日本と決定的に違うのは、モーター・スポーツの人気が若者だけじゃなくて、全世代にわたっていることです。これはスポーツ全般にいえることですが、どんな歳の人でも、男ならF1のことはディスカッションできるぐらいの知識を持っている。女性でも詳しいレギュレーションやメカのことは知らなくても、ドライバーの名前ぐらいは、さらりと10人はあげられるでしょうね。
 F1のレースがあった翌日は、会社に行くと、だいたい仕事の前にひと通りの意見が出ます。シューマッハはああすべきじゃなかったとか、フェラーリのエンジンはまだ完成状態でないとか、みんな一家言もっているわけです。そういう時、黙っている人は、最後に一発、凄いことを言おうとしているか、そうでなければ出世をあきらめた人です。どうしてかって、F1の話というのは、音楽や芸術や歴史の話と同じで、紳士の教養のひとつなんです。F1の話ひとつできない人というのは、徳大寺さんふうに言えば、「あなた、ホントに教養ないですね」ということになる。
 ヨーロッパ人というのは、愛国心が非常に強い人種で、特にイタリアはとびきり愛国心が強い。自分の国を誇りにしています。ヨーロッパというのは、互いに侵略しあってきた歴史を持っていますから、自分自身に誇りを持つ意味で、国が信用されるとか一目おかれるというのは、非常に大切なことなんです。
 F1にしても、サッカーにしても、ヨットにしても、スポーツが栄えるというのは、ヨーロッパで国が信用されるひとつの手段なんですね。F1なら、常に参加国として認められ、サッカーならワールド・カップの常連である、ヨットならアメリカズ・カップで上位に入る……。特にこの3つは、人間の知恵と技術と組織力のコンビネーションが問われるスポーツですから、非常に重要です。スポーツというより文化でと言っていいですね。だから、こういうものについて、はっきりとした自分の意見を持っていて、それを述べることができる、というのは紳士淑女の証なんです。
(内田盾男著“La Mia Macchina!”1995 より)

 リーマン・ショックごときで、F1から撤退したトヨタやホンダは、日本人が信用できないことを体現しただけでなく、文化を知らない守銭奴であることを証明したことになるんだろうねぇ……溜息。