Giovanni Agnelli その1 


フィアットの会長であった“Giovanni Agnelli”氏は日本の経団連でふんぞり返っている自動車業界のブタとは違う。

イタリアGDPの4.4%を占める最大の企業フィアットの会長であり、イタリア最高のお金持ちで、それでいて品があって、インテリで、いつも日焼けしていて、痩せていて、ダンディでスポーティーで……、とにかくカッコイイ男だったわけだ。


  Giovanni Agnelli は創始者である Giovanni Agnelli の孫にあたります。つまり、彼はお祖父さんの名前を貰ったわけで、通常、イタリアではこのふたりを区別するために、孫の Giovanni Agnelli を Gianni 、または、法律の博士号を持っていることから avvocato (弁護士)と呼んでいます。
 もともと、 Agnelli 家はフランスのブルボン王家につながる名家で、“Noble”であることを示す百合の紋章をつけることを許されていたヨーロッパでも数少ない家柄です。
 この一族はまた、切れ者の多いことでも知られていました。その代表格といわれた Giovanni が、1899年にトリノに自動車会社を8人の仲間と設立。その後、筆頭株主から社長となった彼が、軍需景気も含めて、時代の先を読みつつ、大きくしたのがフィアットです。
  Giovanni には、妻クラークとの間に、娘と息子がいましたが、この息子、エドアルドの子どもが Gianni です。1921年に生まれた Gianni は、いずれフィアットを統率することを運命づけられていましたが、彼が14歳の時に父親が飛行機事故で亡くなったために、 Gianni に寄せられる期待は、子どもの頃から大きく、また注目される存在だったのです。
  Giovanni が亡くなったのは、第2次大戦が終わった1945年、Gianni、24歳の時です。この巨大企業を受け継ぐにはあまりに経験不足だったために、彼の成長を待つ間、フィアットを受け継いだのは、Giovanni の番頭さんといわれた Vittorio Valletta でした。
  Valletta は Giovanni のことをおそらく目の上のたんこぶのように感じていたにちがいありません。これは誰もが証言するところですが、僕も実際そうだったろうと思います。 Valletta は Giovanni の片腕として戦前から実務をいっさいがっさい引き受けていたわけだし、何よりフィアットを非常に愛していた人だったから、自分の思う通り、フィアットを動かしたかったんじゃないでしょうか。Valletta がフィアットを引き継いだ時、彼は Gianni に言いました。「あなたはうんと遊んでください」とね。でもこれが結果的にはよい方向に向かったと思います。
  Giovanni がフィアットの陣頭指揮を実際にとるようになったのは50歳を過ぎてからです。それまでの間、彼はケネディ一族に代表されるような世界的な名門と親交を深め、絵画に夢中になり、サッカーに熱をあげ、スキーにヨット、自家用機の操縦と、さまざまな事柄に熱中しました。女性関係も非常に派手で、プレイボーイの名をほしいままにしたんです。
 50年代には、早朝のモンテカルロで、パーティー帰りに自動車事故を起こし、右足をほぼ失う怪我をしています。それからは義足で生活しているわけですが、それでもスキーは続けている。続けているどころか、普通の人が2400メートルから滑り降りるところを、彼は2600メートルから滑り降りてくる。僕も何度かサンモリッツで見かけましたが、青と白のヘリコプターが頭上を通過したかと思うと、護衛を4人くらい連れて、彼が颯爽と滑り降りてきましたね。
 正式に社長となる以前にも、もちろん Gianni はフィアット・グループで仕事をしていたわけですが、何といっても Valletta がいましたから、彼は遊びながら世界を広げ、そうしながら、仕事を学ぶことができたわけです。そういう意味では Valletta がいたことによって、彼は、日本の企業のリーダーとは比較にならないくらい行動力のある、世界でも数少ない企業リーダーになれたんだと思います。
(内田盾男著“La Mia Macchina!”1995 より)

内田盾男氏は、65年にイタリアに渡り“Michelotti”に入社、70年にはチーフ・デザイナーとなった人。トリノ在住。