BRM・H16・Type75 ENGINE

BRMBritish Racing Motors)は往年のグランプリファンにとって懐かしい響きをもっている。いかにも英国紳士風の口髭を生やしたドライバーのグラハム・ヒル(Norman Graham Hill)を思い出す方も多いだろう。あのジャッキー・スチュワート(Sir John Young "Jackie" Stewart OBE)もBRMでグランプリにデビュー“脅威の新人”と呼ばれた。

それまで不遇だったBRMが突如62〜65年のシーズンで新開発したインジェクター付きのV8エンジンP57を開発、1962年シーズンを席巻することとなる。長いBRMの歴史の中で最も成功したエンジンだ。オーソドックスでアマチュアリズムが無いBRMであった。チームメカニック出身のドライバー、グラハム・ヒルが9戦中4勝を挙げ、ロータスジム・クラークを振り切りワールドチャンピオンとなり、コンストラクターズとの2冠を達成した。1965年までの4年間はロータス(クラーク)対BRM(ヒル)のライバル対決がF1界の中心となり、ヒルモナコGPを3連覇し「モナコ・マイスター」と讃えられた。

そして66年、3リッターの新しいレギュレーションに対して、BRMは水平対向8気筒を2段重ねとしたH型2クランクの16シリンダー・エンジンを開発したのだが…


 水平対向8シリンダーを上下に組み合わせた形といってもいいし、並列8シリンダーを左右に組み合わせた形といっても良い。
 たしかに意欲的な企画であり、BRMとしては600馬力という高出力を最終段階では発揮することを期待していたようであるが、結果としては、BRMではなく、BRMからエンジンを購入したロータスが、ジム・クラークのドライブで、66年のUSグランプリ(ワトキンスグレン)で1勝をあげているだけである。

 

結果的には、66年67年の2シーズンを走っただけで、BRMはこのH16を中止して、オーソドックスなV12シリンダーにスイッチした。
 従って必ずしも成功したエンジンとは言い難いけれど、非オーソドックスな意欲作であり、再びこのように複雑な構成をもったエンジンは生まれてこないであろうことを考慮して、とりあげることにした。
 ブラバムのレプコが、非力ではあるけれども、非常に実質的な、かつ職人的なプロフェッショナルなエンジンであって、2シーズンにわたる世界選手権を確保しているのにくらべて、BRM・H16はどちらかというと現実離れした夢を追ったようなエンジンであり、意欲だけが浮遊した観である。
 いうなればアマチュア的であった。
 当時BRMのチーフ・エンジニアをしていたトニー・ラッドが直接の担当者であったことは間違いないが、H16の構想そのものはトニー・ラッド自身なのか、あるいはアルフレッド・オーウェン*1の妹ジーンの夫君であるルイス・スタンレー氏なのか、あるいはBRMの創設以来BRMと共に在ったレイモンド・メイズ氏であったのか、明確ではない。初期の実りなきV16プロジェクトを相当強引におし進めていたレイモンド・メイズ氏の発案ではなかったのか、と私は考える。
 一度メイズ氏自身のお話を聞かせていただこうと思っていたのであるが、そして私は拝眉の機を得ていたのであるが、とうとう聞きそびれたまま、先年メイズ氏は他界されてしまった。


68.5㎜径×50.8㎜のボア・ストロークをもった水平対向8シリンダーを上下に重ね合わせた構成であるが、構造的にはむしろ2クランク・シャフトの並列8シリンダーを左右に結合したというべき形である。
 左側並列8シリンダー・ブロックに2本のクランク・ベアリング・キャップ(計10ケ、上下クランク間隔は約180㎜)が締めつけられ、この左ブロックに右側の並列8シリンダーが組みつけられている。従って左ブロックの方が右ブロックよりも厚く、分割面は2つのクランク・センターを結ぶ面ではない。
 上下クランクは中間歯車を介して歯車結合されており、下側クランクが動力取り出しとなっているが、これは中間ギアからも、あるいは上側クランクからも出力軸取り出しが可能な構造としている。
 出力が500馬力となった時点で、その大馬力を効果的に吸収するために、4輪駆動形式とすることが設計当初から考えられており、このための動力軸取り出しも考慮されている。
 ただし、実際には500馬力到達は希望でしかなく、従って4輪駆動は実現していない。


 
 

上下クランクは各々直4シリンダー形式のフラット・クランク(位相差180°)であって、2つのクランクには90°の位相差がつけられている。
 従って2シリンダー同時爆発となる。
 理論上の慣性力は相殺されるけど、剛体ではなく弾性体であるエンジンは、実際には振動で相当悩まされていた。ギア・トレインにもその因があったように思われる。
 交角約50°の2バルブ方式であり、性能向上型の4バルブ方式は検討だけで終わった。
 冷却水系統、ルーカス吸入管燃料噴射、ルーカス・トランジスター点火方式は、すべて各々左右の並列8シリンダーが独立した形で、左右にわかれている。ラジエターも3分されていて、左は左並列8シリンダー用、右は右並列8シリンダー用、中央は油冷却用となっている。
 2クランク・ボックス構成なので、エンジンはコンパクトにまとまっていて、高さ及び長さについてはシャシー適合性充分であるが、幅は約870㎜であり、3.0リッター・グランプリ・フォーミュラーとしては過大であった。従ってV12のイーグル・ウェズレークのようにスリムで優美なボディ構成は不可能であり、幅広のズングリ型のモノコックとならざるを得なかった。
 エンジン単体重量も約190㎏という、3.0リッター・フォーミュラーでの最重量級のエンジンの一つである。
 ギアボックスはBRM自社製の82型と称する6速で、クラッチは整備性向上のために中空歯車軸を通して最後部に配置されている。
 モノコックシャシーはエンジン前部まででおわり、リア・バルクヘッドにこのH16ボックス・エンジンがガッチリとボルト結合されて、エンジン自体がシャシー後半メンバーとなっている。

 1966年デビュー時に圧縮比12.5で、420ps/10750rpmと称されている。ただし、この時BRM・H16は5年継続プロジェクトで最終的には12000rpmで500馬力以上、目標は600馬力と呼号されているので、この420馬力も多分に希望的な数字であったのかもわからない。排気系は各4シリンダー・ブロックが4→1の4本パイプ構成であり、排気音はどちらかというと重い音であり、1.5リッターV8のような乾いた音ではなかった。即ち脈動効果利用は充分ではなかったはずである。

 なお、2クランクのボックス構成エンジンは、モーターサイクルでは“Ariel”のスクエア・4シリンダー 1000ccがあり、航空ピストン・エンジンでは“Napier Sabre”の水平12シリンダーを上下に組合わせたH24シリンダーがあった。いずれも戦中ならびに戦後の英国産であり、2クランクは英国特産であるのかもわからない。
 結果からだけ見れば、H16という複雑で重い構成が何故採られたのか、そこにはハッキリとした必然性がないと思われるが、しかし技術開発は一つのチャレンジであり、3.0リッター・フォーミュラーの中で異彩を放つエンジンであったことは疑問の余地はない。
(以上引用は 中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)

BRM・H16は4輪駆動を想定したエンジンであったが、当時のタイアのレベルからし当然の帰結であった。1966年モンツァでデビューしたホンダRA237はおそらく世界初の400馬力オーバー・マシーンであったが、履いていたグッドイヤーは400馬力に耐えられずトレッド・ラバー剥離をおこして樹木に激突している。
後にロータス63やマトラ、コスワースが4輪駆動車を開発したが満足した結果を得ることは無かった。その後タイアの技術レベルは飛躍的に向上し、80年代の1000馬力を超えるエンジンパワーを後2輪で充分支えることが出来るようになった。現在に至るまで4輪駆動の必然性は無きものとなっている。



SCX“BRM P261 Graham Hill”
このモデルは1971年に“SCALEXTRIC”から発売されていたクルマの復刻版である。“SCX”は当時スケレの下請けだった。

*1:British Racing Motorsは第二次世界大戦直後の1945年に、技術者のレイモンド・メイズとピーター・バーソンにより創設された。イタリア車やドイツ車が席巻していたグランプリレースにイギリス製のフォーミュラカーで参戦し、英国自動車工業界の威信を示すことを謳い、開発資金の出資を募った。

航空用エンジンから発想を得たスーパーチャージャー付きV16エンジンは開発が難航し、1950年のF1世界選手権開幕に間に合わず、地元イギリスGPでデモ走行を行うに止まった。翌1951年のイギリスGPでデビュー(5位入賞)したが、選手権が翌年から2年間はF2規定で行われたため、このエンジンは国内レース以外に使い道がなくなってしまった。チームは共同出資者のひとりであるアルフレッド・オーウェン卿に買収され、新たに直4エンジンを開発し、1956年からF1に再挑戦した。