The Legend of Tazio Nuvolari Part 8  III Circuito delle Tre Province


1930 Alfa Romeo 6C 1750 GS


 前方に1台のクルマが見えた。道の脇に停まっている。Alfa Romeo 8C 2300 MMだ。
「 Borzacchiniのクルマじゃないか。故障を起こしてレースを諦めたな。そうすると、残りは Enzoのクルマだけだ」
 Nuvolariは、故障車の脇をすり抜けながら、ニヤリと不敵な笑いを浮かべた。
「 Enzoに勝たしても、Nuvolariの名に傷がつきやしないよ」
と Compagnoniは言った。メカニックの目から見れば、6気筒の 1750が8気筒の 2300に勝てるはずはなかった。
「完走して2位になろう。そのために死力を尽くすんだ」
 これが、Compagnoniの気持ちだった。
 ところが、Nuvolariの考えは、もっとふてぶてしいものであった。
「下り坂になれば、排気量の差なんか問題じゃないさ」
 曲がりくねった道は、標高 1200mから下り坂になる。
「ベルトを引っ張れ。力いっぱい引っ張ってくれ!」
 Nuvolariは、Compagnoniに声をかけると、危険な下り坂にクルマを乗り入れた。凄まじいスピードとドリフトであった。カーブを曲がるたびに、クルマは断崖から飛び出しそうになり、次の瞬間、反対側の岩壁に激突しかけた。まるで、狂った野獣のような走りだったが、ステアリングを握る Nuvolariは涼しい顔つきだった。
 Compagnoniは、歯を食いしばって耐えた。革ベルトを引っ張る左手も、車体の下に突き出した右手も、痺れて痛みを感じなくなってきた。
 標高 700mまで降った丘の上に、7,8人の見物客が、固まっていた。その内の1人が、 Nuvolariのクルマにサインを示した。
「 2300に、40秒遅れている」このような文字が書いてあった。
「ほら、見ろ、だいぶ追い込んだぜ!」
 Nuvolariは得意そうに叫んだ。
「でも、ゴールの Porrettaまで 35kmしかないぞ。その間に 40秒の差をつめるのは、ちょっと無理だな。どんな作戦がある?」
 と、相変わらずCompagnoniは手の痛みに耐えながら冷静に計算していた。
「下り坂さ。まだ下り坂がゴールまで続いているってことを忘れるなよ。ベルトを引っ張れ、Compagnoni!」
 Nuvolariは、さらにクルマのスピードを上げた。車体はガタガタと不気味に振動した。壊れているのは、アクセルのジョイント部分だけではないようだ。無謀な走行を続けてきた結果、クルマのあちこちが壊れてきたのだ。
「クルマがバラバラになっちまうぞ!」
 Compagnoniが注意しても、Nuvolariは答えようとしなかった。唇を噛み締め、目を爛々と光らせながらステアリングにしがみついていた。森の木々が、まるでなぎ倒されたように、クルマの左右を次々と後方へ飛び去って行く。あの当時のブレーキ性能で、そしてあの細いタイアで……。



 やがてクルマは、Porrettaの町に入った。
「 Nuvolariだ!」
「早すぎるぜ!」
「本当にコースを回ってきたのか?」
 観客たちは、ざわめき出した。ゴールでは、既にゴール・インした Enzo Ferrariと、リタイアした Bruno Borzacchiniが、ストップ・ウォッチを手にして立っていた。
 だが、Nuvolariは、ゴールの白線以外は、何も見えなかった。とにかく白線を越えてエンジンを切ると、ふらつきながらクルマから降りた。Compagnoniも、クルマからやっと這い出したようだった。彼の右手の甲は、ズタズタに裂け、白いハンカチの包帯が、真っ赤に染まっていた。革ベルトを握っていた左手も、手のひらが赤く腫れて、血が滲んでいた。
「1位、 Alfa Romeo 6C 1750 GS……」
 優勝のアナウンスが流れた時も、2人はまだ口をきくことさえ出来ず、ゴールの脇で無言で抱き合うだけであった。
 2人がかりの無謀な運転は、奇跡をもたらし、1750ccの故障車が、2300ccのクルマを数秒の差で破ったのである。
 その代わり、栄光の Alfa Romeoは、ポンコツと化し、もう2度と走ることは出来なくなっていた。
 スポーツ紙は、Nuvolari / Compagnoni組の勝利を報道し、つぎのような批判を記事にした。
「 Nuvolariは、ぶっ壊し屋だ。すぐにクルマをぶっ壊す。排気量の小さいクルマに乗った時でも、遮二無二優勝したがるからだ」
 確かに、その通りだった。しかし、Nuvolariはクルマの性能を無視したわけではない。どんなクルマに乗っても、全力を尽くし、そのクルマに最大の能力を発揮させて優勝を狙うというのが、Nuvolariの信念だった。
「今更、こんな事を書いても手遅れだよ。俺は子供の頃から、“ぶっ壊し屋”と呼ばれていたんだぜ」
Nuvolariは Compagnoniの方に新聞を投げながら、声を上げて笑った。