1953 LOTUS Mark VI


 Colin Chapmanがモータースポーツという名の虫に捕らわれたのは大学工学部の学生の頃だった。友人と2人で中古車のブローカーで儲けていたのだが、1947年の秋に英国政府がガソリン配給制の廃止を発表すると、高騰していた中・小型車の闇市場が暴落してしまい、多数の在庫車を抱えてしまう。Chapmanは二束三文で売り払った挙句に売れ残ってしまったポンコツの 1930年式 AUSTIN SEVENを解体して自分用のスペシャルを仕立て上げた。LOTUS Mark Ⅰの誕生である。このクルマで彼はアマチュアのレースに出場した。


LOTUS Mark Ⅰ

 1950年代初頭、Chapmanが生み出す LOTUSはレースにおけるパフォーマンスで、その優秀性を大いにアピールした。そこで彼はシンプルなスポーツカーの製造販売ビジネスを興そうと決心する。North Londonは Hornseyにある彼の父親が経営するホテルの隣で小さな工場を設立した。Chapmanは依然としてサラリーマン技師として昼間は British Aluminium社に努め、午後6時に Hornseyに出社し無給で働いた。


FORD TEN

 Mark Ⅵは LOTUS初の市販生産車である。シンプルで軽量なのがコンセプトで、鋼管フレームに補強用として大径のパイプを組み合わせている。シャシー構成部品は入手の容易さを考慮して既存の FORDの部品が多用されている。フロント・サスペンションは中央から切断した FORD TENのビーム・アクスル、ブレーキは同じく TEN用の Girling製ドラム機械式である。エンジンはオーナーの好みのものを選択できるようになっていた。シャシーは LOTUS工場の数件隣にある Progress Chassisが製作、アルミニウムのボディは Williams and Pritchard社で製作した。デザイン面でも同社の意見が多く採用されたようだ。Chapmanはこのクルマをキットとして販売することを考えついた。この販売方式によれば、第1に高額の物品税を免除される。当時の英国では自動車輸出振興策により、国内販売の完成車には実に52%という“禁止税”的な高率を課していた。未完成部品の“キット”販売にすることにより合法的な“脱税”を考えたのだ。第2には、ただでさえ狭く小さな Hornsey工場のスペース、Chapmanを入れて僅か4名の人員という手不足な労力を、手間の掛かる組立作業に割かなくてもすむ。このようなアイデアはブローカーとして稼いだ時の経営センスが生かされたとも言える。この点が大きく発展した LOTUSと、同じレーシングカーのコンストラクターでありながら頑固な職人であり続け、ついに企業として大成をみなかった COOPERとの差でもあった。

 Chapman自身が Mark Ⅵでレースに参加し好成績を上げ、初期のキット購入者がサーキットを席巻しはじめると、Hornseyには Mark Ⅵのキットの注文が殺到した。購入者には David Piperや“JABBY”CROMBAC*1、Peter Gammonなどの有名人が含まれていた。Hornseyの工場での生産は4年間にわたり、最盛期は1週1台のペースで、総計 110台が生産された。



*1:仏「SPORT AUTO」誌編集長で愛犬に「Lo-tus」と名付けていた。日本でもCG誌に連載されたF1コラムで有名。