The First Grand Prix – 1906 French GP Part1

 今日、インドに於いて初のF1が開催される。
 未だに貧困の差は激しく、非人間的なカースト制度が支配するこの国でF1が開催されるとは悪質な冗談としか思えない。
 この“記念”すべき良き日に、世界初の Grand Prixに思いを馳せるというのも良いだろう。



 20世紀初頭の 1900年代、自動車の創世期、欧州では公道を使った都市間レース*1が自然に盛んとなっていった。1895年、史上初の自動車レースは自動車メーカーが乱立するフランスにて Paris-Bordeaux間にて行われた。その理由は、自動車という高価な機械を買うことができるお金持ちがフランスには多くいたからである。市井の人々が買えない自動車を遊びに使えた大金持ちがパリに大勢いたのだ。あの MERCEDES-BENZも、ドイツでは買える人が少なく、販売の多くはフランスのお金持ちに頼っていたのである。
 その華やかさの一方で、事故が多発することが徐々に社会問題となっていった。未だ舗装された道はなく、時速 130キロで突っ走るクルマのシャシーやブレーキはお粗末なものだったし、押し寄せる観衆はレースを見物するのに不慣れだったのである。1903年の Paris-Madridの都市間レースは“race to death”と称されるほど死亡事故が多発*2、惨事を知ったフランス内務省はレースの中止を決定*3、それどころか、都市間レースを禁ずる通達を出すこととなる。しかたなく、欧州各国のメーカーは大西洋を渡り、合衆国でのレース Vanderbilt Cupに参加し活躍した。
 一方、欧州では New York Herald新聞*4の社主 Gordon Bennettがスポンサーとなった Gordon Bennett Raceが急速に注目さるようになった。ACF*5が委託されて 1900年に第1回を開催したもので、公道を利用しているが、クローズド・サーキットで行われ、一定のフォーミュラー(Formula 規定、規則の意)を設けているなど時代を先駆けた内容であった。しかし、その一方で国家間のハンディーをなくすために、一国からの参加車を3台に限ることにより、自由な参加を阻害するという不備も備えていた。特に当時、自動車業界のリーダーであったフランスの各メーカーにとって、一国3台までというレギュレーションは承服しがたいものであった。
 それで、1906年に Gordon Bennett Raceをボイコットして、国別台数制限のない、より大規模なフォーミュラー・レースをフランス自ら主宰することになった。これが 1906年の Le Mans近郊を閉鎖した公道で行われた史上初の Grand Prix、正式には Le Grand Prix de L'Automobile Club de Franceの発端である。
 現在のF1、F2、F3というカテゴリーは戦後 1948年から区分されたもので、 Grand Prixの発祥はフランスなのであることを記憶にとどめておきたい。



 コースに選ばれたのはパリから西南西に 210㎞のル・マン近郊にある軍事戦略道路である。この道路は当時としては道幅も広く、整備状態もよく、わずかの連結道路を新設するだけで1ラップ 104㎞のサーキットを設営することができた。連結道路は板や角材を敷き詰めたウッド・コースである。
 都市間レースでの事故の原因の多くは、前車が巻き上げるもうもうとした土埃により視界不良であったが、そこでACFはコースにタールを敷いて簡易舗装をして、土埃対策をすることにした。ところが、あまりにレース直前になってから舗装したので当日までに十分に固まらず、6月の熱い太陽に溶け出してタイアを傷めたり、ドライバーの目を焼いたりして結局さまざまなトラブルの原因となった*6
 スタート地点には、約 2000人が収容できるグランド・スタンドが設置され、総延長 64㎞にのぼるフェンスが、観客が殺到すると思われる地点に敷設された。



 AFCの心配をよそに、この世界初のグランプリには、実に 33台ものクルマがエントリーした。英国は欠席したがドイツは3台の Mercedesを、イタリアは3台の FIATと ITALAを送り込んだ。残りは Renaultや Panhardなどのフランス勢である。
 レギュレーションは、1007㎏という総重量だけが規定されていた。端数の7㎏という数字は、点火装置マグネトー(magneto)の重量である。これはバッテリー方式が発明される前のもので、マグネトーはコイルと磁石で構成されており、その頃のものはかなり大きく重かったのだ。
 エンジンの排気量に制限はなく、どのメーカーも可能な最低限のシャシーに最大限の排気量のエンジンを搭載していた。当時はまだ多気筒で OHVや OHCの高効率エンジンでパワーを出すという科学的な技術以前の時代で、出力を高めるためには排気量を大きくするしか考えられなかったのである。その結果、世界初のグランプリの参加車は、最小は70ps、Grégoireの 7434ccから、最大は 130ps、 Panhardの 18146ccという途方もないものとなった。4気筒サイド・バルブの Panhardの1気筒あたりの排気量は 4.5リッターにも達している。
 写真は Bastogneの鉄道駅にて行われた計量検査の模様である。



板で覆われた路面に注意。都市間レースでの観客を巻き込んだ死亡事故に配慮し、コース沿道は木の柵で囲われた。


この項つづく。

*1:クローズドのサーキットは存在していなかった。

*2:レースに出場した Renault3兄弟の長兄が死亡している。

*3:レース・コースの管理をしていたのはフランス内務省であった。

*4:パリ在住の米国人向け新聞。現 International Herald Tribune 本部はパリ。

*5:Automobile Club de France、1895年開催の史上初のレースを主催した、世界初の自動車クラブ。

*6:このような突貫工事による不具合は昨年開催された韓国初のF1を思い出す。