Goodwood Festival of Speed 2011 PIONEERING GIANTS

 初期の自動車というものは、馬車よりは多少マシという代物であった。それを先人たちが自動車レースによって技術開発を行い、改良していったのだ。この当時の技術のいくつかは、今日もなお採用されているものが多々ある。
 エンジンの技術に関して言えば、出力を向上するためには、1)できるだけ多量の空気を吸い込ませて、2)効率良く燃焼させ、3)これを有効かつ効果的に機械力に変換することにつきる、これらの条件は20世紀初頭にはすでにほとんど解き明かされていたのである。それを達成するために格闘したのが先人の技術者たちだったのだ。そしてエンジンが良くてもロードホールディングの良いサスペンションがなければコーナーで曲がらないし、それに伴うタイアの性能も、制動力の高いブレーキ、ガソリンの質も向上しなければならない。あらゆる技術の集大成がレーシングカーには要求されたのだ。




1911 FIAT S74 GRAND PRIX
直列4気筒 14173cc 140ps/1700rpm
 最初のグランプリのレギュレーションはボア(シリンダーの直径)の数値だけだった。そこでフィアットが考えたのはストローク(ピストンが往復する長さ)をとても長くすることで排気量をかせぐことだった。それによりエンジンが高くそびえる怪物となり、ドライバーの視界はエンジンに遮られ、ボンネットごしにチラリと前方が見えるだけになってしまった。チェーン・ドライブで木製ホイール。前輪にはブレーキがない。
 フィアットは自動車の創成期1900年代に於いて、グランプリ・レースの最強のコンテンダーであり、ほぼ勝利を独占していた。そこからは契約ドライバーだった Vincenzo Lancia(1906年に自らの名を称した自動車メーカーLANCIAを設立する)や、アルファ・ロメオに移籍して数々の名エンジンを世に送り出す Vittrio Jano が輩出されている。フィアットのレース活動によって多くの人材が生まれ、彼らがやがてイタリア自動車業界の重鎮となり、その発展に尽力を尽くすことになるのである。現在、イタリアのほとんどすべての自動車会社がフィアット傘下になっているのは、ある意味、当然の帰結ともいえる。
 オーナーはアメリカ人で20年前に手に入れたとのこと。もしかすると、当時フィアットの契約ドライバーであった米国人 David Bruce Brown が操ったマシン(1912年、ACFグランプリにて2位)であろうか? 100年も前のマシンなのにエンジンは一発でかかり調子が良さそうだったのが印象的だった。
 





1923 FIAT MEFISTOFELE
直列6気筒 21706cc 320ps/1800rpm
http://bit.ly/pMpJUE
 1903年のグランプリ・マシン FIAT S.B.4 のシャシーを延長し、フィアット製航空エンジンを搭載した速度記録挑戦車。1923年7月12日に世界記録234.98㎞/hを達成した。
CENTRO STORICO FIAT による参加。とてつもなく大きな車体で、広角のない自分のデジカメでは、とてもその全長を収めることはできなかった。タイムアタックでは調子が悪く、上り坂でエンストして動かなくなっていた。


動画はスタート地点までトラックに牽引される様子。




1933 NAPIER RAILTON
W12気筒 24000cc
 FIAT MEFISTOFELE と同様に航空機用エンジンをぶちこんだ、速度記録挑戦車。Reid Railton の設計。「ジェントル・ジャイアント」と異名をとる John Cobb の操縦により、1935年10月7日に英国ブルックランズ・サーキットの永久コースレコード、230.8㎞/hという記録を打ち立てる。W12気筒は航空機用エンジンなので、最大回転数はたった3000rpm。燃費はリッター0.3㎞の大食らい。最高速度265.5㎞/h。クローム・メッキのボディは怪しい凄みが感じられる。ブルックランズ博物館からの参加。写真の朝もやのようなものは、ブガッティが出す燃焼不良の排気ガスによるもの。


The Napier Railton on the track driven by John Cobb 1935





1923 DELAGE V12
V12気筒 10600cc
 ドラージュは、いまは無きフランスの高級車とレーサーのメーカー。Louis Delage によって1905年に創業した。Delahaye を1935に併合し、1953年に廃業している。このマシンは Charles Planchon 設計による自然吸気V12エンジンを搭載。グランプリでも活躍した。フェラーリがV12気筒に拘ったのは、エンツォがアルファ・ロメオのドライバーだった時、レースで競ったドラージュV12の性能に感銘を受けたからだとも言われている。1923年には、スピード記録でも229.2㎞/hという世界記録を樹立。その後、カナダ生まれの英国女性ドライバー Kay Petre による操縦で1934年9月26日にブルックランズ・サーキットの速度記録214.7㎞/hを樹立している。
 

Kay Petre and DELAGE V12


それにしても、この時代のクルマのために、タイアを製造するダンロップミシュランの懐の深さに、自動車文化を支える欧米企業の存在の重みを感じてしまう。振り返って我が国の自動車産業、自社のクルマの博物館すらないメーカーがあるのは寂しいかぎりだ。その彼らに、そんな気概があるのかと考えると、大いなる疑問を感じざるを得ないのだ。自動車文化の香りが感じられないだけでなく、派遣労働者を奴隷のように使役して生産している日本車はそうとうに薄っぺらなモノに思えてしまう。