ASA 1000 GT

King pin さんに見せてもらった“ASA 1000 GT”。

 1959年12月、エンツォ・フェラーリは850㏄の4気筒エンジンを発表する。フェラーリとしては異例に小排気量のエンジンで、64〜82馬力を発するType854と発表された。報道ではFerrarina (little Ferrari)と称され、ついにフェラーリが高級車市場から舞い降りたと噂された。
 この計画はフェラーリ社内から反発を受けることになる。フェラーリの営業マネージャーだった Girolamo Gardini は、フェラーリの高級な企業イメージを損なうので反対した。
 困ったフェラーリはプロジェクトを凍結し、その製造権利そのものを有名なフェラーリの顧客であった、石油化学工業会社を持つ Oronzio De Nora へと譲った。彼はその息子 Niccolo と共に ASA(Autoconstruzioni SA)を設立する。プロトタイプはエンツォによりプレゼンテーションされた。




ASA 1000 GT Prototipo

 1961年のトリノショーでデビューした ASA 1000 GT はセンセーショナルを巻き起こした。優雅で可愛らしさをもったボディはベルトーネ在籍のジウジャーロの作品。新しいビジネスマン・エクスプレスとして評価された。
 1963年になって販売は開始されることになる。鋼管フレームのシャシーに、ベルトーネのボディが架装され、メカニックは Giotto Bizzarrini が主設計したフェラーリ製、水冷直列4気筒、SOHC 1032cc 97ps を搭載。まさに夢のベビー・フェラーリであった。
 自動車ジャーナリストは、ASA を好感をもって迎えた。Sports Car Graphic 誌のテストで著名な Bernard Cahier は、最高速の179.2㎞/hで疾走し、“brilliant little car” had “superb road handling.” と評した。
 しかし、洗練されたそのパフォーマンスにも関わらず、市場の反応は悪かった。1000ccのスポーツカーとしてはあまりに高価だったのだ*1。ASA よりも排気量の大きい Alfa-Romeo Giulia Sprint よりも4割も高かったのである。
 テコ入れとして、後にバリエーションのスパイダーをラインナップしたにも関わらず、販売は向上せず、1966年に業績悪化で ASA は廃業となった。
 総生産台数は100台と言われている。その貴重な ASA は日本に10台が生息していると言われている。







エンジン・ヘッドは黒の結晶塗装。250GTOと同じだ。


ASA 1000 GTC, 1963 Modena


ASA RB613, 1966 Ginevra - Le Mans practice


TARGA 1966 PIANTA / SIR ORTENSIO ASA 411 - SCUDERIA ASA

*1:当時、北米フェラーリ・ディーラー Luigi Chinetti の値付けが 6000$。現在の邦貨換算で2000万円となる。