1922, 2-liter Grand Prix racing Fiat 804


“1922, FIAT 804”1922 French Grand Prix, Strasbourg Winner- Felice Nazzaro

今日でこそ、フィアットはF1グランプリをフェラーリに任せているが、自動車の創成期から1920年代までは積極的にグランプリ・レースに参戦していた。
特に1922年に制定されたエンジン排気量2000㏄以下、車重650㎏以上という新フォーミュラ・レギュレーションに対するフィアットの回答である“Tipo 804”は、その後のグランプリ・マシーンの設計に多大なる影響を与えた傑作である。


1922年のグランプリ・レギュレーションとなった2.0リッターに対して、当時フィアットの主任設計者であった“Giulio Cappa”はそれまでのフィアット804の直列8気筒3.0リッターのストロークを100㎜に短縮し、かつ直列6気筒とすることを基本構想とした。
鋼製ウォーター・ジャケット溶接構成の3気筒ブロックを2個とするという、フィアット航空エンジンの実績をそのまま採用した。
カウンター・バランスをもった一体クランク・シャフトを、シリンダー各スロー毎に設けた7個の分割型ローラー軸受で支持し、大端ベアリングも分割型ローラーであって、当時その耐熱特性が限界に近づきつつあったホワイト・メタルによる平面軸受をエンジン主要運動部分から追放してしまった。後端で垂直軸とベベル・ギアで駆動されるDOHCで、バルブは4バルブでも3バルブでもなく、オーソドックスな大型2バルブであり、交角は96°という球形燃焼室であった。潤滑はドライサンプで、ピストンは軽合金、スチールのリングをレースごとに交換するようになっていた。このエンジンはフィアット自製のキャブレターと7.5の圧縮比で、結果として、当時ライバルであったバローの3800回転、デュッセンバーグの4250回転を大きく上回る5200回転を可能とし、1991㏄から112馬力を引き出し、車重わずか686㎏の“Tipo 804”は最高速度170㎞/hを誇った。
“Tipo 804”は、当時としての“小型で軽く”というレーシングカーがとるべきひとつの原則の見本のようなマシーンであった。


“Tipo 804”は1922年にわずか2回しか行なわれなかったグランプリに全勝優勝した。そのひとつはストラスブールのACFグランプリで、“Felice Nazzaro”の“Tipo 804”は800㎞のレースで2位の“De Viscaya”に1時間近い差をつけて、平均速度127.67㎞/hで優勝した。しかし“Pietro Bordino”と“Felice Nazzaro”の甥の“Piaggio Nazzaro”の乗る2台はレース終盤近くになって鉄板溶接構造をとっていたリア・アクスル・ハウジングが折損し後輪が外れるという危険な事故でリタイア。“Felice Nazzaro”は自分が優勝したレースで甥を失ってしまう。
http://www.motorsnaps.com/v/1920s+Racing+Cars+and+drivers/1922/French+Grand+Prix/

続いて、新しくレース専用コースとしてスタートしたモンツァにおけるイタリアGPでは、前記のリア・アクスル・ハウジングも補強されて、“Pietro Bordino”及び“Felice Nazzaro”の2台の“Tipo 804”はブガッティに9ラップの差をつけて1−2フィニッシュを飾っている。“Pietro Bordino”の平均速度は139.855㎞/hであった。
まさにフィアットの圧勝であったわけだが、実はこのレースにはフィアットとブガッティ、ディアットーしか参戦していなかったのだ。他のライバルたちは集団欠席したわけだが、その真相は“Tipo 804”の圧倒的な強さに恐れをなしたためと伝えられている。


“Tipo 804”はライバルたちに多大な影響を与えたが、有名なところでは“Enzo Ferrari”の求めに応じてフィアットを辞めアルファ・ロメオに移籍した“Vittorio Jano”、彼が設計した名グランプリ・マシーンの“P2”は“Tipo 804”のエンジンと基本設計は同じで、改良したものである。