Musée automobile de la Sarthe  1906 Mototri Contal Pekin-Paris 


単気筒 6hp.

 Mototri Contalは 1906年〜1908年に存在したフランスのメーカー。主に3輪車の製造を行った。
この個体は 1907年の北京〜パリ・レースに出場したもの。ゴビ砂漠にてリタイアとなっている。

 

 北京〜パリ・レースのアイデアは、1907年1月31日のパリの新聞 Le Matin紙によるものであった。
「自動車を所持する紳士諸君。自動車がどこにでも行けるということを証明するために、この夏北京からパリへの旅に挑戦する者はいないか?」
 当初、40のチームが参加を表明していたが、最終的にスタート地点の北京に船便でクルマを持ち込んだのは5つのチームとなった。参加車両は6月10日の朝8時に北京をスタートした。
 レースには一切のルールは無かった。パリにいち早くゴールした者には Mumm - Champagneのマグナム・ボトルが1本だけ授けられるという、まさに名誉のためのレースだったのだ。コース案内の標識や先遣隊の誘導は一切なく、ドライバーは見知らぬ国の見知らぬ土地で、ほとんど道路のない場所を走った。燃料補給は北京からのラクダによるサポートが行われた。レースの経過は電信によって、刻一刻とパリの新聞社に詳細に報告された。個々の参加車両は、定期的に電信で報告するジャーナリストを従えていた。レースとしては世界初の試みである。当時、欧米にとって未開の地であった中央アジアを走ったのも特筆させるべき事項であり、北京とバイカル湖の間の道路は、つい最近、馬による路ができたばかりであった。
 勝者は Itala 35/45 hpを操った Scipione Borghese皇太子と Ettore Guizzardiである。同行したジャーナリストの Luigi Barziniは、よほどレースに自信があったらしく、Moscowから St. Petersburgへのディナー(!)を企画し、皇太子らに回り道をさせて、再びレースに復帰させたほどであった。排気量 7433cc Italaの技術的な性能の優位は素晴らしく、ジャーナリストの予想通りに8月10日に大勢の群衆に迎えられてパリに到着した。レースは危険に満ち満ちていた。皇太子らの Italaはレース途中で橋から転落している。2位はオランダの Spykerを操縦した Charles Goddard と Jean du Taillis組。彼は資金がなかったのでクルマは借り物であったし、燃料もライバルに頼んで給油してもらった。パリに到着したのは1位から29日後の8月30日のことであった。
 他の車は、峡谷や、流砂、泥、そして自動車が渡るようには作られていない橋に遮られてリタイアとなった。Contalの3輪車を 操縦した Auguste Ponsはゴビ砂漠の流砂によってスタックしたが、幸運にも遊牧民に助けられ九死に一生を得た。



橋でクラッシュした Itala。