1952年 の検索結果:

アリババの洞窟にて

…・スポーツ DC3 1952年というトラックとバスだらけの日本にあって、戦前のダットサンをベースにMGのようなクルマを作りたいという情熱は買いますね。ボディデザインはオオタ自動車の太田祐一氏。限定50台で価格は83万5千円。大卒初任給が8,000円ぐらいの時代です。 ダットサン・デリバリーバン DV—5自治体の役所で使っていた個体のようです。商業車の残存率は極端に低いので貴重な個体です。しかもDV−5は1954年の一年間しか生産されなかったのでなおさら珍しい。価格は67万円で…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

…くなった。1950〜1952年まで毎年、春と秋の年2回の賃上げ、夏と冬のボーナス闘争が執拗に繰り返されていた。つまり年間を通して2ヶ月前後は賃金闘争に費やされていたのだった。 このような時代に、塩路は入社したのだった。まさに日産は、給料の良い一流会社であった。ただ、当時、明治大学から日産に入社した先例は、ほとんどなかった。他の一流企業同様に学閥主義が支配していたからだ。そこで塩路はわざと明治の学生服を着て人事部長の猪股良治(後の日産ディーゼル副社長)に直接面会した。 そして初…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part3 歴史的な日産大争議

…ウト宣言より1年前の1952年8月に発生した「民主化グループ」であった。日産の内部には、争議の最中から、若手技術者を中心とした起業研究会があり、そのグループは争議の深刻化にともない、組合執行部に批判的な態度をとるようになった。それが1953年8月30日に、第2組合として結成され、浅草公会堂で発会式が行われた。当初は500人であったが、しだいに1,000人、2,000人と拡大した。 ロックアウト宣言後の川又は、当面、賃上げを認めないことを条件に、第2組合と一連の妥結条件を結び、…

Musée automobile de la Sarthe  1952 SOCEMA Gregoire Prototype Turbine

1952年10月に開催されたパリ・サロン。会場を訪れた人々を、あっと驚かせたのが未来からやってきたシェイプのこのクルマであった。しかもエンジンはガスタービンであったのである。 当時の航空機産業はターボジェットとターボプロップ・エンジンの開発を推し進めていた。 SOCEMAは航空機と関連部品のメーカーであり、1949年のパリ航空ショーでは複数のジェットエンジンを展示していた。タービンの開発技術者は、これをクルマのエンジンとして利用することに興味を持っていた。とてもコンパクトなタ…

TOYOTA MUSEUM CLASSIC CAR FEST  1961 Triumph Italia 2000 Coupe

…00 Coupéは、1952年から1962年までの間に僅か 329台のみが生産された貴重なクルマである。Giovanni Michelottiによるデザインは、まさにイタリアの小粋なスポーツカーそのもの。Triumph TR3のシャシーにイタリアはトリノの Alfredo Vignaleがボディを架装。メカニカル部品も TR3のものが流用されている。 当時、イタリアのナポリで Triumphの代理店であった CESAC社の Salvatore Ruffinoは、もっと美しいデ…

Un grande Maestro di design  Aldo Brovarone  DINO Berlinetta Speciale

…ro Dusioが 1952年にイタリアで Cisitaliaを再開した際に同行して帰国。1953年の深刻な金融危機のおかげで Cisitalia復活は藻屑と消えたが、Dusioの紹介で Battista Farinaと面会し、 Pininfarinaに3ヶ月の試用期間を経て正式なデザイナーとなる。当時のチーフ・デザイナー Francesco Salomoneの下でアシスタント・デザイナーとしてキャリアをスタートした。 この頃の代表作として Maserati A6-GCS, …

DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 7

…954-1959) 1952年に発表された初代 DB Coachは 1954年にボディ・デザインをよりモダーンに一新。スチールのボディは、より安価で軽量のFRP製となった。これはFRP製量産車としては世界初であり、LOTUS Eliteに先駆けること3年であった。また DBによる市販スポーツカーとしては最も成功したものであり、総生産台数は660台となっている。 搭載されたエンジンは PANHARD製空冷水平対向2気筒エンジンであるが、馬力課税4CVに相当する 745ccを H…

DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 3

…本格的スポーツカー。1952年のパリ・サロンで発表された。そのメカニズムは全てに於いて DBレーシング・スポーツのロード・バージョンと言えるクルマであった。バックボーン・フレームに PANHARD DYNA Xのエンジンを搭載。ボディはコストの面からアルミとはいかずスチール製。英国のライトウェイト・スポーツのフランス版といったところで車重は500kgであった。 スポーツカーに飢えていた当時の若者に絶大な人気を博し、DBにレース運営の資金を提供することになる。 シフトノブがレー…

1964 Arista JD Sport

…のひとつであった。 1952年にパリで Panhardと NSUのディーラーを経営していた Raymond Gaillardが設立したのがAristaだ。60年代初頭にデザイナー Jacques Durandを招き入れ、彼はイタリアン・デザイン風のファストバック・クーペをデザインする。それが 1963年に発表された JD Sportである。他の ARISTA同様にコンポーネンツは PANHARDを使用。このクルマには PL17のシャシーが流用され、エンジンも PANHARDお…

1952 Hotchkiss Grégoire berline

…に重くのしかかった。1952年のパリ・サロンでは、Hotchkissは会場にてカラー刷りのカタログを配布できないほどに衰退してしまった。翌53年に僅か40台が生産されて Hotchkiss Grégoireは製造中止となる。総生産台数240台のうち180台がサルーンであった。残りは Henri Chapronによって架装されたクーペやカブリオレとなっている。 Bピラーの部分が一番車幅があるようにデザインされている。 Chapron製クーペ。 Hotchkiss社製軽戦車 H3…

1954 Salon de l'Auto organise au Grand-Palais.

…A ARISTAは 1952年から1967年までパリに存在した自動車メーカー。 Panhard Dynaのコンポーネンツを使用し、軽快なグラスファイバー製ボディを架装していた。空冷水平対向2気筒850cc、45馬力で最高速度140km/h。 AUTOBLUE Renault 4CVをベースにカロッツエリア Ghiaによるデザインのクーペボディが架装されたもの。Alpineのようにエンジン・チューンが一切為されていなかったにもかかわらず、素の 4CVの2倍という価格がネックとな…

講談社の1年生文庫 『ひこうき』 Part2

…メリカ人であった。 1952年4月9日、羽田空港を飛び立った「もく星号」はその直後に消息を立ち、翌日、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認された。 当時の航空管制や事故捜査は連合国軍(実質的には在日アメリカ軍)の統制下にあったため、墜落事件の詳細は今もって不明な点が多い。 http://showa.mainichi.jp/news/1952/04/post-67ef.htmlそう、この絵本は朝鮮戦争の真っ只中に発行されたもので、未だ日本は米軍統治下にあった時代のものであ…

1951 Marauder Open tourer

…るクルマに対する税金を52%にアップ、これにより£1,236だった車両価格は 1952年には£2,000とほぼ倍となってしまった。当然、売れるわけがなく Marauderの事業は頓挫、3人は再び Roverに戻ることとなった。 余談であるが、Colin Chapmanが禁止税的な増税を逆手にとって、キットカーで起業したのは有名な話。 http://d.hatena.ne.jp/gianni-agnelli/20120107/1325862628 昨年7月にヘリテージ博物館で。

1956 MG EX179

MG

… TD EX172 1952年の終わりに EX 172の流れをくむ2台の EX 175が製作された。後の MGAのプロトタイプである。拡幅されたフレームとシートは低い位置に備えられた。しかし未だ XPAGエンジンを搭載していた。内1台はレーシング・スクリーンを備え、スピード・トライアルに挑戦したが、結果は芳しくないものであった。 MG EX 175 その後、EX 179と改名され、流麗な空力ボディーと特別な改良が施されることとなる。これにより、米国ユタ州のボンネビル塩湖にて速…

偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part20 LAST RACE

…数か月で回復した。 1952年5月2日、MERCEDES-BENZチームが復活した。ミッレ・ミリアに参戦したのだ。戦後初めてモーター・スポーツに復帰したのである。新型のスーパー・スポーツである 300SLに乗り Caracciolaは参戦、4位でフィニッシュした。とはいえ、このレースは彼の勝利といってもよいものだった。41歳という年齢で、しかもレースの進行と痛みが激しくなる麻痺した足をもって、途絶えることなき雨と嵐の中を平均 120km/hで13時間近くも走ったのである。彼は…

1931 Mille Miglia Mercedes-Benz SSKL

…勝から 21年後の 1952年、Mille Migliaに再び Caracciolaは挑戦し、4位でフィニッシュした。彼は1931年の SSKLと 1952年の 300SLを比べ、その進歩の素晴らしさに感銘を受けたことを記している。 「こんな豪華なスポーツカーでレースができることは、なんて素晴らしい事なのだろう。クルマの運転は楽で、ステアリングは腕に優しく正確であった。恐ろしく踊るステアリングを押さえつけ、石ころだらけで土埃の舞う道を走って私が優勝した 1931年の Mill…

Goodwood Festival of Speed 2011 POST-WAR GTs

…のだ。 この個体は、1952年の Carrera Panamericana に参戦したマシンで、Lang/Grupp 組により2位でフィニッシュしたもの。 1952 Carrera Panamericana Mexico: Mercedes-Benz racing team (from left): Hermann Lang, Erwin Grupp, Karl Klink und Hans Klenk with a Mercedes-Benz 300 SL racing c…

Goodwood Festival of Speed 2011 THE ROADSTER ERA

…scari の操縦で1952年にインディーに挑戦した*1。しかし結果は12位で走っていた40週目でリタイアしている。F1のようには上手くいかなかったのだ。 1957 KURTIS KRAFT-OFFENHAUSER‘DAYTON STEEL FOUNDRY SPECIAL’ 直列4気筒 OHV 4.1リッター 古くは1934年にインディーで勝利した OFFENHAUSER を搭載している。このことだけでも単調な左回りのトラックをただひたすらフラット・アウトで疾走するだけという…

Goodwood Festival of Speed 2011 FRONT-ENGINED GRAND PRIX CARS

…なもので、1950〜1952年を通じて完走したのは51年の英国GPただ1度だけだったのである。 これは、採用された遠心式スーパーチャージャーの特性が自体が、激しい加減速やアイドリングもない航空機エンジンに適切なものだったからである(レーシング・エンジンには容積型のルーツ“繭”式が適切とされていた)。エンジンのパワーバンドがほぼ最大回転数の付近のみという、コントロールが非常に難しいマシンとなってしまったのだ。 このマーク2では、ディスク・ブレーキの採用、ド・ディオン方式のリア・…

Goodwood Festival of Speed 2011 その5 Abarth 1500 Biposto (1952)

…高速度180㎞/h 1952年のトリノ・ショーにてフィアットのブースにて発表されたワンオフ。ベルトーネ時代の鬼才フランコ・スカリオーネによる傑作。当時の人々に与えた衝撃は、シトロエンDSがパリサロンで発表された時に人々が受けたものと同等のものだったであろう。 この後、ベルトーネは空力を追及したB.A.Tシリーズ*1をアルファ・ロメオ1900ベースで次々と発表することになる。 熱心に孫に説明するオジイチャンが微笑ましい。このような光景は会場のいたるところで見受けられた。エンスー…

1953(昭和28)年、日本の自動車事情

…圧倒的に多く、前年の1952年末では乗用車の3倍にも達していた。乗用車を保有していたのは一部の富裕層と、法人、そして官庁であった。 そして、全国の乗用車の3割強が東京に集中していたというのだから恐れ入る。 トラックやバスは戦後唯一の重工業として、国産車の生産が認められていたが、乗用車は昭和24(1949)年10月まで生産を禁止され、輸入も26年6月まで国内用には厳禁だった。その間、外人名義の3万ダイを乗回していた特殊階級もあったが、大勢はオンボロの木炭車だった。ところが26(…

Facel Vega Facellia Coupe 2+2

…工場であった。 戦後1952年頃までには、パナールやシムカ、フォードに日産100台余りのボディを供給する大手ボディ・メーカーに変身していた。 そして1954年のパリ・サロンにて豪華なクーペ“FV”が展示された。戦後の禁止税的政策で消滅した大型で高級な Grand routier の復活を目論んだのだ。デラヘイやブガッティの煌びやかな夢よもう一度ということだったようだ。エンジンとミッションを自社製とすることはできず、エンジンはクライスラーの4.5ℓ V8で、それを同社のAT共々…

GALLERIA FERRARI その4 ランチアとフェラーリ “D 50”

… 最高速260㎞/h1952年のF1グランプリは、アルファ・ロメオやBRMの撤退によって参加台数が危惧され、臨時措置として排気量2リッターのF2フォーミュラーで行なわれることとなった。ランプレディはその能力をフェラーリ初の4気筒エンジンを搭載したF2マシーンに投入した。その結果はアルベルト・アスカリを52年度、53年度の世界チャンピオンに導くこととなる。 特に52年7月19日のイギリスGPで、アスカリは2位以下をすべて周回遅れにしてフィニッシュするという、彼のレース歴のなかで…

GALLERIA FERRARI その2 “375 F1”

…肉なものである。 翌1952年のシーズンを前に、アルファ・ロメオは経営上の問題でグランプリの舞台を去り、新しく参入した英国BRMのV16マシーンも熟成不十分でマトモに走ることができず撤退。F1マシーンはフェラーリのみとなり、やむを得ず臨時的な措置としてグランプリはF1フォーミュラーではなくF2フォーミュラーで行なわれることとなる。よって、せっかく熟成されてきた“375 F1”は、その実力を発揮して圧勝できる機会を永久にもぎ取られてしまったのだ。【関連記事】 http://fi…

アルファ・ロメオ 100年の栄光と衰退 その7 廃墟からの復活

…れば、1910年から1952年の最後の6C2500までのアルファ・ロメオの総生産台数は、1万2868台にすぎず、いわばレースに勝つことだけがその存在意義であった。これに対し、ピークの1980年代には年間21万9571台を送り出している*1。一握りの裕福な階層の住む天上界から、われわれの住む地上へ降りてきたのが戦後のアルファ・ロメオなのだ。その第一歩を記したのが、戦後のチーフ・エンジニア、オラツィオ・サッタの下で1950年に誕生したこのアルファだ。 1950 1900 直列4気…