野沢三喜三さんの自動車人生  その2  1916(大正5)年の自動車大旅行

 ニューヨークにある、アメリカで最も古い吊り橋の一つであり、同時に鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊橋でもあるブルックリン橋。ハリウッド映画にもしばしば登場する有名な橋だ。この橋を設計したドイツ系アメリカ人 John Augustus Roeblingの息子Ferdinand Roeblingによって設立されたのが Mercer。彼の息子の Roebling IIはマネージャーとなっている。
 元々は Roebling IIの友人である William Walterがニューヨークで1902年に設立した自動車メーカーthe Walter Automobile Companyを引き継いだものだ。その時に会社を Walterがニュージャージー州メーサー郡に所有していた使わなくなった醸造所に移設して Mercerとしたのだった。

 1910年に世に出した Type 35R Raceaboutは有名なクルマで、直列4気筒 4,800ccのエンジンは55馬力を発生、最高速度は 110km/hにも達した。向かうところ敵なしで、アメリカ国内で行われた6つの公式レースの内5レースに勝利している*1

 その Type 35R Raceaboutで1916(大正5)年に自動車による旅行を果たしたのが野沢三喜三さんなのである。

 以下、野沢三喜三さん本人の談より。


豊橋市内を行く野沢三喜三さん(左)の Mercer Type 35R Raceabout

 大正4(1915)年の秋のことだった。大正天皇即位式をあてこんで、アメリカから自動車競争の一行がやってきた。Mercerという競走用の車を4台持ってきたが、日本では競技場もないし、自動車競争に興味をしめす人も少なかったので、一行は買える旅費も無くなって立ち往生してしまった。それを私は聞いたので、4台の車を1万円(現在の貨幣価値で約930万円)で全部買い取ってしまった。このときは商売よりも、競走用のハイ・スピードの車に興味があったからである。
 Mercerは110キロのスピードをもっていた車だが、当時の日本にはそんなスピードを出せる道路はどこを捜したってない。60〜70キロのスピードをだしたら、乗っている人はもちろん、見ている人も「生死の境の速さ」といって驚異の目をみはった時代だ。翌、大正5(1916)年の1月、私はこの車で名古屋の親類までドライブを試みた。東京〜名古屋間約360キロに4日間を費した旅だった。
 第1日は東京から箱根宮の下まで。第2日は静岡まで、この間には富士川がある。そのころの東海道には自動車が渡れるような橋がなかったので、川の手前で汽車に積んで次の駅まで輸送した。第3日は浜松までいったが、大井川ではまた苦労した。川にそって下っていくと藤枝から御前崎のほうにいく軽便鉄道の鉄橋があった。その線路の横に付いているガタガタの人道を恐る恐る渡った。橋の渡り賃は40銭か50銭だった。人の渡り賃は1銭か2銭のころだから、たいした金額だが、橋番は橋を壊されはしないかと思うらしく、いい顔はしていなかった。天竜川は河口に橋があったが、これも名ばかりの橋で、橋杭の上に板を渡し縄でしばったものだった。競走用の幅の狭い車が渡るのは、ちょっとハンドルをきり違えたら、車輪が落ちてしまうほどちゃちなものだったが、ここでも橋銭を50銭とられた。名古屋に着いたのは4日目の夕方だった。
 名古屋から知多半島常滑というところの野間のお地蔵様を観に行ったのだが、名古屋にフォードのハイヤーが2台あったので、それも一緒に常滑までドライブした。その頃は自動車が珍しいものだったので、止まったが最後、車だというので人が集まり、人垣から抜けるのがひと苦労だった。市販の道路地図なんぞなかったから、陸軍参謀本部の地図を参考にしたものだ。

*1:唯一敗れたのはインディ500。