野沢三喜三さんの自動車人生

由緒ある日本の自動車クラブ SCCJの会員であった野沢三喜三さんは、明治、大正、昭和と日本の自動車創成期からその販売に携わった人である。その人生は正に日本の自動車の歴史であり、また日本の自動車エンスーの歴史でもある。

最近手に入れた資料から、彼の自動車人生を紹介しよう。



 ガソリンエンジンで走るドイツのNSU単車に乗ったのが1909(明治42)年。私が19歳の時。その頃は自動車も少なかったが、単車はもっと少なかった。最高速度は60km/hまででたが、そんなにだすことはめったになかった。40〜50km/hで飛ばすと、道行く人は驚いて立ち止まって見る。服装は普通の洋装で、帽子はその頃流行し始めた鳥打帽(ハンチング)、幅上げ靴(ブーツ)を履いて、手には当時としてはたいへん高級品だった英国製の皮手袋をはめる。ちょっといかすスタイルだった。そんな出で立ちで、ある日さっそうと帝国ホテルの前に差し掛かった。道路は平らといっても土がむき出しになった路面で*1、帝国ホテルも有名なライトが設計する前のものだったが、ちょうどその玄関あたりで、ひょっとしたはずみでスリップして、見事横倒しになってしまった。怪我はしなかったがロンドン製の手袋も泥だらけ、洋服も破れてしまった。いまならば単車がスリップしたぐらいでは、通りがかりの人は横目で見るぐらいだが、その頃は大事件とばかり人だかりがして、痛いやら恥ずかしいやら、単車はこりごりと思ったものだった。

 それから間もなくのことだった。イギリス Belsizeという自動車を買った。その頃の私は、別にカミナリ族でもカーマニアでもなかったが、父の貿易商を手伝っていたので商売上から単車や自動車を手がけるようになったのである。
 Belsizeは最高速度40km/hぐらいだった。自動車教習所なんぞ当時はなかったから、運転方法は仕様書など見て考えるよりほかなかった。陸揚げして荷解きした横浜港の岸壁で、ああでもない、こうでもないといじくり回して、やっと動いた時は、ゾクゾクするほど嬉しかった。荷解きに立ち会った税関の役人やお巡りさんが、試乗させてくれ、と言って乗り込み、私もいささか得意になって、横浜の街を何回も走ったものである。それから東京の家まで運んだのだが、途中、芝の御成門まで来るとオーバーヒートして停まってしまった。東京まで乗ってきた連中で調べたが、どうしても原因がわからない。
 2、3日の間は、道の端にほっておいたが、やっとのことで運転のベテランに来てもらって動かした。いま考えればおかしいが、原因はラジエターのバルブ・コックの締めすぎか何かだった。
 その頃の東京〜横浜間の道は昔からの東海道で、道幅も狭く、むろん舗装などしていない。雨が降れば泥んこ、晴天が続けば砂埃が舞って、40km/hのスピードで自動車が走ると、しばらくは目も開けられない。自動車にはいつもスコップやツルハシ、鉄板、丸太、縄などを乗せておいて、泥にはまりこんだら、すぐに七つ道具を取り出して引っぱったり押したりしたものだった。

*1:当時は舗装している道路は大変に珍しいものだった。