GALLERIA FERRARI その4 ランチアとフェラーリ “D 50”
直列4気筒 DOHC 1984cc 185ps/7500rpm 最高速260㎞/h
1952年のF1グランプリは、アルファ・ロメオやBRMの撤退によって参加台数が危惧され、臨時措置として排気量2リッターのF2フォーミュラーで行なわれることとなった。ランプレディはその能力をフェラーリ初の4気筒エンジンを搭載したF2マシーンに投入した。その結果はアルベルト・アスカリを52年度、53年度の世界チャンピオンに導くこととなる。
特に52年7月19日のイギリスGPで、アスカリは2位以下をすべて周回遅れにしてフィニッシュするという、彼のレース歴のなかで最高の速さを示した。
そして1954年、F1のレギュレーションは2.5リッターとなり、復興を果たした西ドイツからは強敵メルセデス・ベンツがあの“W196”を投入してくる。戦前ヒトラーに支援されて怪物をグランプリに投入していたメルセデスがレースに復帰するということは、彼らが「必ず勝つ」ということを意味していた。
一方、イタリアでは、ランチアの2代目、Gianni Lanciaが戦後、副社長となると父親譲りのレースへの関心*1が捨てがたく、究極の夢グランプリに参戦することを決定する。
レーシングカー設計で高名なヴィットリオ・ヤーノを主務設計者とし、ドライバーはアスカリ及びヴィロレッシィと契約して、グランプリカー“D50”の開発を進めることとなった。
90°V8気筒 DOHC 2485.98cc 265ps/8000rpm 最高速 280㎞/h
フロントノーズにあるランチアのエンブレムに注意されたい。
ヤーノをチーフとするランチア設計陣のD50に対する設計主題は“小さく、短く、低い、軽い”グランプリカーを作ることであった。重くて、複雑で、大きくて、ただし非常に強力であったライバル、メルセデスとは逆の志向であった。
73.6パイX73.1㎜、90°V8エンジンは、前記のような設計主題のもとに“初めから”シャーシのストレス・メンバーとして使うことが考えられていた。
エンジンをシャーシ・ストレス・メンバーとして“利用”することは、1930年代以降しばしば試みられているけれども(当時、サイド・メンバーを主体構成とする梯子型フレームの時代であり、エンジンはハシゴ・フレームの捩り剛性メンバーとして利用された例が多い)、エンジンをもっと積極的にシャーシ強度メンバーとして使う考え方は、このランチアD50あたりが先駆である。
もちろん、すでにシャーシはハシゴ・フレームではなく、より軽くて、よりコンパクトで、より剛性の高い鋼管溶接スペース・フレーム型式であり、エンジンを強度メンバーとして積極的に使うことに、より積極的な意味が生まれてきていたのである。もちろん、その主題はシャーシ重量の軽減にある。各ブロック・ツインカム、シリンダー当たり2弁形式、2重点火、4連ツイン・チョーク・ソレックス気化器のこの2489㏄V8・D50のエンジンは、どちらかというとオーソドックスな構成であり、例えばメルセデスW196のような凄烈な意図は感じられない。しかし断面図で見られるように、非常に大型のクランク軸ベアリング・キャップを4本の太いスタッドでクランク・ケースに締めつけて、エンジン全体剛性を高めるなど、いうなれば経験に裏打ちされたプロフェッショナルな配慮が一貫しているように思われる。
マセラティ250Fの直列6シリンダーも同じ傾向であり、決して技術的な斬新さがその目的ではなく、あくまでグランプリを勝つことを主題として、経験豊富なプロが作ったクルマであろう。そして、これが戦後今日現在に至るまでのグランプリ技術の底流であり、かつ同時に主流でもある。
繰り返すけれど、このような意味ではメルセデスW190はいうなればアマチュア的であり、費用を考慮せず、開発エネルギーもふんだんに使って、勝つためには技術的により良い方向であるハズであることだけに向かって邁進している。
もちろん、これは戦前までのグランプリ技術の、どちらかというと、主流であったのであるが、しかし戦後の歯車はすでに回りはじめているのであり、W196などはむしろ時代錯誤(アナクロニズム)であるというべきであったであろうと、私は考える。
ある意味では懐古(ノスタルジー)でしかない、といってはメルセデスに対し酷であろうか。
(中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)
燃料タンクはボディ両側に張り出して配置されており、かつ前後タイアの空間を埋めるエアロパーツの役割も果たしている。
さて、なぜランチアのマシーンがフェラーリとなったのかを説明しよう。
D50のグランプリ・デビューは1954年シーズンの最終レースとなったスペイン・グランプリである。アスカリは予選1位を確保、レースでは3ラップから9ラップまでメルセデスを抑えてリードを保っていたが、クラッチの故障でリタイアとなった。大パワーのメルセデス(しかもドライバーはファンジオだった)を相手に善戦した素晴らしいデビュー戦であった。ライバルのメルセデスよりも120㎏も軽いボディーは翌年の55年シーズンの善戦を予感させた。
しかし、55年シーズンの緒戦となったアルゼンチン・グランプリでは、クルマは容易にテール・スライドをおこしてしまい、小さくて軽いマシーンの熟成不足が露呈してしまう。フランスGPではブレーキの故障で勝利を失うこととなる。それでもトリノとナポリを勝利し、55年のモナコを迎えることとなる。
3台のメルセデスがクラッシュしてしまったあと、アスカリがトップを走っている最中に、モナコの有名なハーバー・シケインを突っ切って、そのまま海にマシーンともどもドボンしてしまった。この時、アスカリは無事に海中から救助されたが、その4日後に友人のフェラーリをモンツァで運転中に事故で帰らぬ人となる。その日は奇しくもアスカリの父親の命日と同じ日であった。
名ドライバー・アスカリの事故死だけでなく、経営状態が悪化していたランチアにグランプリ活動継続は大きな重荷となっていた。
その一方でフェラーリも54年シーズンをランプレッティ設計の直列4気筒2.5リッターで戦ったが、メルセデス相手ではコンペティターとなり得ず、新型を投入しようにも何らかの外部サポートがないと経済的にグランプリ活動は存続不可能に近い状態にあったのだ。
そこでイタリアの巨人フィアット社は、イタリア自動車工業会と協力してランチアのF1グランプリ機材の一切をフェラーリに委譲させ、さらに向こう5年間にわたり毎年5,000万リラの経済援助をすることを申し出た。
結果としてフェラーリは6台のランチアD50と、設計者のヴィットリオ・ヤーノと、数台のトランスポーターと、さらに若干の機材をランチアから譲り受けることとなった。
フェラーリに移ってランチア・フェラーリ混成部隊となったチームは55年のオフシーズンに、エンジンパワーの12馬力アップと、D50の特徴であった左右の燃料タンクをオーソドックスな後部タンクに変更した(ただし空のタンクはそのまま残した)。
設計者のヤーノが左右中央タンク配置にした理由は、燃料満タン時とレース終盤時とで前後重量配分を大きく変更しない、という点にあったが、実際には満タン時にテール・ヘビーになる尾部タンクの方がドライバーにはそのドライブ・フィールの評判が良かったようだ。
55年のルマンでの大事故により、メルセデスはレースから全面撤退。そのおかげであのファンジオがドライバーとして加わり、1956年シーズンに突入する。
ファンジオは緒戦のアルゼンチンで勝利、最高ラップも記録した。しかし、その後の勝利はマセラティ、ヴァンウォールで占められることとなる。ただしチームメイトのピーター・コリンズはベルギーとフランスGPで優勝する。
ファンジオはたび重なる自車の故障に、コリンズをチャンピオンに仕立てようとするエンツォの企みかと思いこみ(精神科医はノイローゼと診断している)、専属のメカニックを要求。エンツォもしぶしぶこれを認めることとなる。
フランスGPの時点では、76パイX68.5㎜ 2490ccという超オーバー・スクエア、285ps/8500rpmにパワーアップした新型エンジンを搭載している。
その後ファンジオはイギリスGP、ドイツGPで優勝、最終戦のイタリアGPでは、自車が故障した後、25歳の英国人僚友ピーター・コリンズがチャンピオンになる可能性が充分にあったにもかかわらず、「僕は若いからこの先もまたチャンスがある。今回はファンジオがタイトルを得るのが正当だ」として自分のマシーンを自主的にファンジオに譲った。そのおかげで彼は4度目の世界チャンピオンとなった。
モナコにて4輪ドリフトを極めるファンジオ。しゃべり声はエンツォが揶揄したように“アルミ製の声”だ。
1986年にランチアは、“Thema 8.32”というアッパー・ミドル・クラスのサルーンを発表した。驚くべきことに、そのボンネットの下にはフェラーリ308QuattroValvoleのV8エンジンが収まっていたのだ。これは“D 50”を譲渡してくれたランチアへの恩返しだったと言われている。
その後フェラーリは、他メーカーに自社のエンジンを供給してはいない。
*1:ランチア創業者の Vincenzo Lancia は元々フィアットのレーシングドライバーで後に研究開発部門の要職に就任後、独立した。