GALLERIA FERRARI その2 “375 F1”


“1950 375 F1”

60°V12気筒 SOHC 4493cc 350ps/7000rpm 最高速320㎞/h

1951年7月14日、イギリスはシルバーストーン・サーキットにて、このフェラーリはF1世界選手権での初勝利をもたらし、それまですべてのF1レースを制していたアルファ・ロメオ“Tipo159”アルフェッタを葬り去った。
時代はスーパーチャージャーから自然吸気エンジンへと変わろうとしていたのだ。

ドライバーは、“Jose Froilan Gonzalez”。
彼は、そのレースの模様をフェラーリ50周年の記念本に書き記している。



左からゴンザレスとファンジオ

 1951年、ファンジオと私はすでに5年来の友人だった。彼は私より11歳年上で、母国のアルゼンチンでは私の叔父(レース中の事故で死んでしまった)とレースをしていた。そんな理由から、私はずっと彼のことを一世代違う人物と見ていた。
 その後、アルゼンチンの人たちがヨーロッパのレースに出場し始めると、お互いのライバルチームに属していたものの、我々は一緒に長い時間を過ごしたものだ。私が初めてイギリスの土を踏んだのは、ファンジオのアルファロメオ・クーペ*1に同乗してであり、1951年7月にランスで行なわれたフランスGPの後のことだった。
 ランスは私にとってフェラーリで出場した最初のレースだった。病気になったピエロ・タルッフィの代役だったが、アスカーリと共に、ファンジオのアルフェッタに次ぐ2位でフィニッシュすることができた。しかしアルフェッタの時代はもう先が見えていた。そのスーパーチャージャー付きの直列8気筒エンジンは燃料を大食いし、自然吸気エンジンを搭載した我々のニューマシーンである375より、常に1回余計にピットストップを行なわざるを得なかったからだ。ランスでアルフェッタの競争力が高かったのは、主催者がレースの距離を600㎞に延ばしたからに過ぎなかった。
 イギリスGPの2、3日前、ファンジオは私をアルファ・ロメオ・クーペのサイドシートに乗せて、シルヴァーストーンのコースを走ってみせてくれた。コースについての研究が終わった後、彼は「ぺぺ、今度のレースは君が勝つと思うよ」と言った。
 シルヴァーストーンのレースは400㎞しかなかった。そのため燃費の良い我々のV型12気筒エンジンは、アルフェッタよりも1回ピットストップを節約できそうだった。だが、私のこの有利さを知っているファンジオは、私の優勝を阻止するためにできる限りのことをしてくるはずだった。アルファロメオの関係者もまた、クルマの走行距離を延ばそうと配置できるすべての場所に燃料タンクを増設した。
 予選で私はポールポジションを獲得することができた。当時のシルヴァーストーンはコース幅が広いと見なされ、4−3−4……というスターティンググリッドが可能であった。そしてフロントロウは、私とアスカーリのフェラーリが、ファンジオとファリーナのアルフェッタを挟む格好となった。
 イギリス人の主催者たちは、レースのスポーツ性を守ろうと心に決めていた。そこでスタートで誰もフライングをしないよう、競技長はレース前のドライバーズ・ミーティングで、フロントロウの4人に対して、フライングした者には誰でも5分のペナルティを課すと告げた。我々はこのいわば脅しを恐れ、スタートのフラッグが振り下ろされた瞬間、セカンドローの3人が我々の前に飛び出す始末だった。もっともそれはごくわずかな時間のことであったが。
 私はすぐに首位に立ったが、ファンジオもクルマが軽くなるにしたがって私を追い上げにかかった。そしてついに私を捕え、抜き去った。私の手元には。メインストレートを並んで走りながら視線を交わし合っているこの時の写真が残っている。しかし彼の速さは、最初のピットストップでクルーが燃料を入れ過ぎて、クルマが重くなったことで失われてしまった。それ以降、私は充分な余裕をもって、優勝に向けてひた走った。すでにアスカーリはリタイアしていたので、今回も彼が私のマシーンを引き継ぎたいのではないかと考えた*2。そこでピットに入り、クルマから降りようとすると、彼は私の前に手を掛けて、そのまま乗り続けるように合図した。その結果、私はアルファ・ロメオ以外のマシーンで初めてワールドチャンピオンシップに優勝するという栄誉を手にしたのだった。
(中略)
 私がはっきり覚えている事柄はこれくらいだ。他のことはもう忘れてしまった。たとえば1951年のシルヴァーストーンで私がサインしてやった少年のこともそうだ。最近、成長した少年に会ったが、彼はあの時のことを私に思い出させようとし、イギリスで“パンパス・ブル(大草原の猛牛)”と呼ばれた人物のサインもらってどんなに嬉しかったかを話してくれた。その少年の名前はジャッキー・スチュワートといった。
(“Ferrari 1947-1997 The Official Book”より)

グランプリで初優勝した際にサインしてあげた少年がジャッキー・スチュワートだったとは…映画のような一場面が目に浮かぶようだ。

さて、“375 F1”の技術的な解説は、故中村良夫さんの著書『レーシングエンジンの過去・現在・未来』から引用しよう。

 

フェラーリと彼が新任したアウレリオ・ランプレディは、グランプリを勝つためには“何か新しいもの”を見付けなければならなかったのである。
 彼らが着目したのは1949年に現れてきた“Lago-Talbot”の4.5リッター無過給の6シリンダー車であった。
 高過給高圧縮の多段過給エンジンにくらべてはるかに燃料消費が少なく、軽くてコンパクトなシャーシ構成を可能にする高性能の無過給エンジンこそ、次のグランプリを勝ち得る要因であるはずであると考えたのである。
 しかし戦前派のコロンボはエンツォやランプレディの新しい考え方に賛同できず、フェラーリを去って再び古巣のアルファ・ロメオに帰ってしまった。
 かくしてランプレディが作りあげたのは、80パイX74.5㎜V12シリンダー4494㏄“Aspirata”(自然吸入)エンジンであった。
 常識的な60°のV交角であり、各シリンダー・ブロック・ヘッドは3列ローラー・チェインで駆動されるシングル・カム・シャフトを持ち、60°のバルブ交角もつシリンダー当たり2弁を作動する。
 ブロック、正確にはウォーター・ジャケット及びヘッドは一体の軽合金鋳造で、ウェット・シリンダー・ライナーをねじ込む形式をとっている。
 クランク・シャフトは7点支持で、英国で生まれてきた新しい“Vandervell”の薄肉鋼製バック・メタルにインディウムのオーバー・レイをかけた平面軸受を使用している。
 半割りメタルを、ベアリングキャップで締めつけるという非常に簡潔な構成であり、この方式はこのあとのレース・エンジンだけでなく、生産車エンジンの設計に大きな影響を与えて、その基本的な形式となった。
 コンロッド大端も同じくヴァンダーヴェルの薄肉メタルである。
 3ケのツイン・チョーク・ウェーバー気化器からガソリンを主体としたアルコール・ベンゾール混合燃料(主として燃料オクタン価を上げるため)をおくりこんで、当初6500回転で330馬力を発生した。
 さらに点火系を2重点火(当時依然として高圧点火マグネトーが使用され、このフェラーリの場合マレリーである)方式に改修するなどして7500回転380馬力に向上している。
 自然吸入エンジンの吸排気効率を高めるためには大径弁をとることが有利であり、そのためのボアの大型化、即ち同一シリンダー容積に対してストロークよりもボアを大きくとる、即ちオーバー・スクエアの構成を一般化したのも、このフェラーリ375であった。
(中略)
 駆動系は短いプロペラ・シャフトを介して、エンジン動力を後車軸上に配置された多板クラッチ・4速ギアボックス及びファイナル・ドライブに伝えている(後車軸上配置は主として前後重量配分を適正にするため)。
 前輪を不等長ダブル・ウィッシュボーン及び横置きリーフ・スプリングで支えたド・ディオン形式としている。全輪に油圧ダンパーを設けた。
 以上、シャーシの側から見れば、まだ依然として戦前的であり、このフェラーリ375シャーシには新しいアプレ(戦後)の波はほとんど見られない。
 エンジンだけが一足先にアプレに脱皮したのである。
 面白いところである。

1951年度シーズン、華々しい活躍をした“375 F1”であったが歴史は皮肉なものである。
翌1952年のシーズンを前に、アルファ・ロメオは経営上の問題でグランプリの舞台を去り、新しく参入した英国BRMのV16マシーンも熟成不十分でマトモに走ることができず撤退。F1マシーンはフェラーリのみとなり、やむを得ず臨時的な措置としてグランプリはF1フォーミュラーではなくF2フォーミュラーで行なわれることとなる。よって、せっかく熟成されてきた“375 F1”は、その実力を発揮して圧勝できる機会を永久にもぎ取られてしまったのだ。

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*1:たぶんトゥーリング・ボディの“1900 Super Sprint Coupe”だと思うのだが。

*2:当時は自車が故障しても、チームメイトの車でレースを継続することができた。