MONACO HISTORIQUE 2016  Ferrari 246 DINO 1960

The Ferrari 246 F1 was a Ferrari racing car built for the Formula One World Championship of 1958. The regulations for 1954–1960 limited naturally aspirated engines to 2500 cc and for the 1958 season there was a change from alcohol fuels to AvGas.

The 246 used a 2417 cc Dino V6 engine with a 65° angle between the cylinder banks. This was the first use of a V6 engine in a Formula One car, but otherwise the 246 was a conventional front-engine design. The Ferrari 246 was good enough to win a World Championship for Mike Hawthorn and a second place in the Constructors' Championship for Ferrari.

The Ferrari 246 was not only the first V6-engined car to win a Formula One Grand Prix, the French Grand Prix at Reims in 1958, it was also the last front-engined car to win a Formula One Grand Prix. This occurred at the 1960 Italian Grand Prix at Monza, where the major British teams boycotted the race.

In 1960, the Ferrari 246 designation was also used for the first mid-/rear-engined Ferrari, the 246P Formula One car (using same Dino V6 engine of 2417 cc), and then again in 1966 for Ferrari's first three-litre era Formula One car.

MONACO HISTORIQUE 2016 Veritas RS 1948


BMW製、直列6気筒、1,971㏄、約125馬力。

ベリタスは西ドイツの 第二次世界大戦直後に設立されたスポーツカーとレーシングカーの会社で、創業者はエルンスト・ループ 、 ゲオルグ・マイヤー 、ローレンツ・ディートリッヒ。最初に顧客であり、ホッケンハイムのレースで勝ちたいと考えていた Karl Klingから供給された戦前のBMW 328のエンジンやパーツを使い、BMW-Veritasを完成させました。 このクルマは1947年に納車され、その後1947年にドイツの2リッターチャンピオンになりました。 ほんの数台が作られた後、BMWからの異議にしたがい、クルマは単にVeritasとして知られるようになりました。

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15


1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家の生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

 1935年、フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。



1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

MONACO HISTORIQUE 2016  1948 TALBOT-LAGO Type 26 Course

 戦前に開発されていた技術と部品によって作られていたにもかかわらず、TALBOT-LAGO 26Cは戦後のグランプリ・レースを6年間も戦い続け、1.5リッター、スーパーチャジャーで武装されたアルファ・ロメオやマセラティ相手に善戦した。あの Louis Chironらが26Cで参戦している。
 エンジンは4.5リッターのDOHCと3基のストロンバーグ・キャブレターにより280馬力を叩き出している。ギアボックスはWilson gearboxで所謂 Preselector gearbox。
 この個体はイタリア人レーサーの Franco Comottiにより1948年度のグランプリレースに11回参戦した。 Comottiはブレシアに生まれ、ムッソリーニファシスト党に支配されたイタリアに我慢できず1936年にフランスに亡命し、戦争中にナチス・ドイツ支配下のイタリアに潜入して拘束され死刑判決を受けたが、レジスタンスに助けられたという数奇の運命の人物。


ステアリングコラムに取り付けられているシフトレバーに注意。

MONACO HISTORIQUE 2016  Stirling Moss and his Maserati 250F

1956年5月13日、F1世界選手権第2戦モナコ・グランプリ。

 前年のル・マン24時間レースでの大惨事の責任をとってメルセデスがすべてのレースから撤退したため、この年、モスはマセラティに移籍していた。チームメイトのファンジオはマセラティに戻らず、レースから撤退したランチアD50を引き取ったフェラーリに移籍していた。ランチアフェラーリD50はヴィットリオ・ヤーノによる設計でV8気筒を搭載していたが、マセラティはコンベンショナルな直列6気筒にこだわった。しかしながら、エンジンの搭載方法は大幅に改良された。すなわちエンジンを車体中心から斜めに搭載し、ドライブシャフトをわずかにオフセットしたコクピットの左側を通すようにしたのだ。これにより着座位置が低くなり重心を低くする効果を狙っていた。ギアボックスは通常5速が搭載されていたが、モナコの市街地コースを考慮して4速が搭載された。

 プラクティスではファンジオがモスよりも少し速いタイムを出し、ポールポジションがファンジオ、2番手がモスだった。しかしモスがスタートと同時にファンジオを追い抜き、1周目のラップタイムでファンジオに5秒の差をつけることに。2周目にファンジオはスプーン・カーブで彼としては信じられないような凡ミスでスピン。モスとの差はますます広がることに。15ラップ時にはモスがブレーキが不調のチーム・メイトのペルディサを抜いた時に軽く接触事故を起こし、ボンネットを潰すこととなったが、応急処置ですぐにレースに復帰する。
 40ラップ時にはファンジオのマシンのショックアブソーバーは酷く損傷しており、フェラーリのチーム監督の判断で、2位を走っていたチームメイトのコリンズがピットに呼び戻され、ファンジオが乗り換えることとなった。一時はトップを独走するモスとの差は45秒にもなったが、ファンジオは炎の追撃を開始、レース終盤に最速ラップタイムをたたき出すなどしたが健闘むなしく、2秒差でモスが優勝。彼のマセラティ時代初のグラン・エプルーブを獲得することとなった。

1956 O.S.C.A. 750S


 1938年、3兄弟が経営するマセラティに大きな経営上の変化が訪れる。マセラティ兄弟によって運営されていた会社に外部からの資本が創業以来初めて参入したのだった。とくに経営危機があったのではない。4Cや6CMがレースで好成績を収め、グランプリの名門である Alfa Romeoと肩を並べるほどのコンペティターとなるほどにマセラティの経営は順調だったからだ。
 資本参入したのは Adolfo Orsi。製鉄業から工作機械、農耕機械、電気機器、果ては都市交通業まで手広く広げた企業グループのオーナーであり、マセラティの乗っ取りを企てたのだった。
 初め Orsiが狙ったのはスパークプラグ部門(Candeli Maserati)だったが、それが自動車と切り離せないことを知り、レースの覇者であるマセラティの名声がビジネスに利用できると考えた彼は、ボローニャマセラティ買収を思いついたのだった。残された3兄弟(元々は6人兄弟だった)の Ernesto Maserati(末っ子で技術マネージャー)と Ettore(5男)と Bindo(次男、元イソッタ・フラスキーニのテストドライバー)はこの申し入れを真剣に考えた末、遂に1938年の初めにそれを受け入れ、この誇り高い兄弟の工場、Officine Alfieri Maseratiを Orsiの手に引渡したのである。Adolfoは息子 Omer Orsiをその社長の座に据え、マセラティ3兄弟は特別待遇の社員になった。
 本社は創業地ボローニャからモデナへ移され、マセラティの新しい歴史が始まった。元々グランプリで優勝しても、大抵のチームがシャンパンの海の中でその勝利を祝っているというのに、マセラティ兄弟だけが汚れたブルーのオーバーオールに身を包んでじっと喜こびを噛みしめるように、次のレースのための車の整備に没頭する姿がよくみられたほど、兄弟はレースに情熱を注いでいた。金策の心配のなくなった3兄弟は歓喜して新しいグランプリ・マシーンの設計に取掛り、ポンテヴェッキオ工場の明かりが消えることはなかったのだった。新しく設計された3リッターのモノポストは、強豪のドイツ陣を打ち負かすことはなかったが、北米に送られたマシンは見事に 1939と 40の2年連続、苛酷なことで知られるインディアナポリスのメモリアル・デイ500マイル・レースに見事連続優勝している。
 第2次大戦中もマセラティの名声は兄弟とともにあり、戦争終結とともに見事に返り咲いた。フォーミュラの変更とともに1.5リッターのマセラティはレースで注目され、戦争直後無敵を誇ったアルファ・ロメオの出場しなかったレースにはほとんどすべて勝利を収めた。
しかし常に独立自尊心を失わない3兄弟は遂に 1948年重要な決心をした。Orsiと関係を改善する代りに、彼等は彼等自身の仕事をすることにしたのである。彼等には永年の経験に裏付けされた頭脳があったし、Orsiとの契約でマセラティの名を使うわけには行かなかった。そこで彼等はボローニャに帰って手頃な小さな工場をもち、それにO.S.C.A.( Officine Specializzate Costruzioni Automobiliの略)という名を冠した。兄弟がもっていたのは旋盤などの最小限の工具とそれに彼等の頭脳と技術、そして彼等の名声……それがすべてであった。それからのO.S.C.A.はマセラティ時代のような派手な栄光は無かったが、無数の国内レースにおびただしい勝利をものにするとともに、1950年の Mille Migliaには Fagioli / Diotallevi組の Osca MT4 1100がクラス優勝しているし、1954年にはLloyd / Moss組の Osca MT4 1450が大排気量車を敵に回して Sebring 12 Hoursで優勝している。これは耐久レース史上最大の番狂わせのひとつと言われている。

 耐久レースのスポーツ750クラスとスポーツ-850クラスを対象とし 1956年にデビューした、O.S.C.A. 750は(Type S187)、直列4気筒DOHC 750cc 70馬力のエンジンを搭載、車重430kgのボディを最高速度180km/hまで引っ張った。Lotus 11や Lotus 17、 Fiat-Abarth、 DB HBR4や Moretti 750s、そして無数の Stanguelliniの良きライバルとして、欧州はもちろんのこと北米のレースでも活躍した。
 de Tomasoと Colin Davisの乗る O.S.C.A. Sport 750 TNは 1958年のル・マンで総合11位で750ccクラス優勝し、 Index of Performanceを獲得している。


O.S.C.A. の指定オイルが Shellであったことに注意。

1964 HONDA F1 prototype


派手なゴールドに塗られたプロトタイプ。操縦するのは Jack Brabham。
彼がホンダを訪れたのは 1962年の春。いろいろ商談があったのかもしれませんなぁ。


内側も金ピカだったとは。ミッションのあたりは腕で擦れて塗装が禿げているのに注意。メーターは左から水温・油圧・タコ・油温・燃料計。


1500ccのV12気筒エンジンは大胆にも横置きされていたが、マフラーも1気筒あたり1本で12本だしという迫力。しかしながら、バッテリーが上下のマフラーの間に配置されていたのは???