Touring Car Race. Sir John Whitmore Part4


At the 24 Hours Race at the Spa-Francorchamps Grand Prix circuit in July of 1964. The Mercedes-Benz 300 SE (W 112 series), of Robert Crevits and Taf Gosselin, takes the chequered flag.

 練習中、私のベストラップは MERCEDES-BENZの Böhringerより10分の数秒しか遅くなかったので、レースに期待を見出して喜んだ。
 ところが悪いことに、ル・マン式スタートは予選タイム順ではなく、エンジン排気量順に変更され(ル・マンと同じ)、私は MERCEDES-BENZから 40台以上も後ろに並ばされた。
 私はチーム・マネージャーの Alan Mannに、スタートはタンクに半分のガソリンでやらせてくれと頼んだ。この狙いは、燃料が軽ければ少し良いラップ・タイムが出せるので、MERCEDES-BENZを楽に捉えられるかもしれないということだったのだが、当然ピットインは早くなることを意味していた、しかしボスはそんなことは必要ないと強調した。
 それで私は夢中でスタートして第1コーナーに14位で飛び込んだ。しかし、MERCEDESはずっと先を走っていた。
 第1ラップの途中、スピードの出る直線に続くS字ベンドで驚くべき事故が起こった。2ラップ目に私がその地点に到達したとき、引き離されていた MERCEDESと BMWが徐行して、コース・マーシャルが狂ったように注意のイエロー・フラッグを振っているのが見えた。
 MERCEDESと BMWが丘の陰に消えてゆくとき、2台のブレーキ・ランプが点灯するのが見えたが、その直後コース・マーシャルはイエロー・フラッグを引っ込めた。私は事故車がコース上から片付けられたのだと確信して、Sベンドではまったく減速しなかった。そして丘を越えたあたりで MERCEDESと BMWが事故車の残骸に囲まれてほとんど止まりそうになっているのを発見、身の毛もよだつ恐怖を感じながらブレーキを踏んだ。とにかく、奇跡的に事故車の残骸の他は何もぶつからないで止まり、私が期待したよりもずっと早くトップの2台に追いついた。これで MERCEDES、BMW、それに私の Cortina Lotusは一緒に先頭集団となった。
 1時間後、私は Böhringerとデッド・ヒートを演じ、多くは私がトップだったが、何回もトップを奪われた。この一騎打ちはとても楽しかった。Böhringerは相手にしていつも楽しい奴だ。私が追い越すときは、いつも手を振って、絶対にコーナーで幅寄せしたりしなかった。何という良い男だろう(Böhringerは素晴らしいラリー・ドライバーである)。
 我々は2台同時にピットインした。しかしそこで MERCEDESは珍しく作業ミスをやらかしたので、チーム・メイトの Frank Gardnerはずっと早く飛び出してトップに立った。ところが、その後直ぐに彼はクラッチの故障で、レースからリタイアした。しかし、とても楽しい戦いだったし、またしてもチーム・マネージャーの Alan Mannの采配は正しかった。
 我々がいかに努力したかは、Spa-Francorchampsを 1.6リッターの Cortinaで、平均 180km/h近くでラップしていたことでもわかってもらえるだろう。このスピードは 10年前に Mike Hawthornが 4.5リッターの Ferrariで優勝した時よりも速い。それが市販の乗用車で達成されたのだ。これは自動車にどれほどの進歩がこの間あったのかを確実に示すものである。

Touring Car Race. Sir John Whitmore Part2


Ford will show the overwhelming strength, saloon car racing in the UK. Galaxy top, the second Cortina Lotus.


 ‘Touring Car Race’の FIA国際モータースポーツ競技規則は、‘Formula one’のものよりも頻繁に変更されるが、少なくとも3種類の競合する排気量クラスに収まるのが普通だ。許される改造範囲も変更される。
 クラブ・レースでは改造は何でも通用し、特別な部品が出回っているのが見られるだろうが、国際レース(FIA公認)では一般に生産ラインから出た姿に近いものである。標準仕様はメーカーが提出し、FIAが検査するホモロゲーション書式に明示されている。
 我々が‘homologation’(車両公認書)について話しても迷う人が多い。無論複雑なので知る必要もないが、言葉の意味は「承認」とか「確認」である。とにかく、この車両公認書は、特定の生産モデルの部品やオプション部品の寸法が記載されている。そしてこの場合、最小1000台(1965年まで)の同型車が生産されていること、という規則も記されている。
 レースの車検を行う訓練されたエンジニアの技術員は、競技車両を公認書と照合するが、その際に参加車両のほぼ全部が不正を働くという理由で念入りに点検する。故意にやろうとする者はほとんどいないが、実を言えばインチキがあるのはある程度真実で、特に2人の技術委員が規則を全く同じに解釈するとは限らないので、100%正しいことは不可能に近いからである。
 国際‘Touring Car Race’は、競技が製品の有効な展示となると共に、最も厳しい条件下で性能を証明できる機会となるので、大手自動車メーカーによって支持されている。
 例えば、長距離レースは宣伝効果が絶大であるほか、優勝車のサスペンション、ブレーキ、スピード、耐久性などの優れた組み合わせを公開するのである。
 コンペティションは、後日メーカーが取り上げて生産モデルに採用する改良箇所も掘り出している。この好例は、FORD Cortina GTのリア・サスペンションに関連するラジアス・アームである。この懸架方式は直接レース・サーキットからの経験から生まれたが、これなどほんの一例にすぎない。
 しかも、大手メーカーの自信たっぷりのチーフ・エンジニアでも、製図板からは学べない何かがあるのだ。
 控えめなテスト・ドライバーではなくレーシング・ドライバーの手で、サーキットを機械の限界まで駆動させるような極度のテストだけが、設計上または生産時の欠陥をさらけ出すのだ。
 技術的試験は、もちろんこれとは目的の異なった別の仕事であるが、エンジニアはプライドを捨てて、レース中に起こることなど「わからない」ということを受け入れたら良いのだが。
 「いや、これは通常の使用では十分に丈夫だ」ということをよく聞くが、生産部品がレースで破損した結果、それ以降どれほど耐久性を強化されているか知ったら驚くことだろう。
 従って、コンペティションは一般のユーザーにも貢献していることになる。

Racing management Alan Mann (1936-2012) Part6


LeMans 1966. Ford GT40 MKII Alan Mann Racing. Drivers; Graham Hill and Brian Muir.

 試行錯誤しながらクルマを調整する。‘Make and try’を繰り返しながら沢山の要因を注意深く考慮するのだが、ドライバーがサーキットで数ラップ速く走ってピット・インした時に、メカニックに対しクルマがどのような調子であったのか正確に伝える能力があれば、大変な助けとなる。未だ多くのドライバーは「高速で曲がる時、やや引き連れる」とか「止まってくれない」などと言うような表現しか出来ず、酷いのは「何だかおかしいみたい」と言ってのける。彼らがこのような戯言を言っているときは、本気で役に立っていると考えているのだろう。実を言うと、我々がタイムを計測していれば、悪いときはピットに居てもだいたいわかる。コース上にオイルがあったり、スロットルが硬かったりすることによるのかもしれない状況は、ドライバーの不正確な表現では改善しようがない。
 しかし、有難いことに、わかり易く、いつも的を外さない(そうでないときもあるが)言い方でクルマの操縦性の欠陥を即座に指摘できるドライバーもいる。Graham Hillは、15分も乗れば、とても書き表せないような価値のある助言のリストを出すことができるプロ・ドライバーの好例だ。彼が初めて Cortina Lotusを運転した時、かなりの時間をかけて、このクルマが速く走らない理由を説明したが、我々が提示した Cortina Lotusによる彼のラップ・タイムは、どのラップもコース・レコードよりも 0.5と遅くない好タイムであったのを知ると、彼は驚いた様子だった。一瞬、皆黙り、Grahamは穴にでも入りたい気持ちで皆に昼飯を奢った。
 この他にテスト・ドライバーとして優れている者に、"Jack" Brabham、"Richie" Ginther、Bruce McLarenなどが私の認めるところだ。
 スプリント・ドライバーに必要なもうひとつの性格は、絶えず最高スピードで練習できる能力である。あるドライバーはタイム・アタックの場合、ライバルと併走する時よりも自己ベストより 0.5秒遅くなるという悪い癖をもっている。これは僅か 10ラップのスプリント・レースでは、まったく不利なスターティング・グリッドの2列目しかとれないので、かなりのハンディとなる。



LeMans 1966. Ford GT40 MKII Alan Mann Racing. This car was driven by; Sir John Whitmore and Frank Gardner.


 さて、長距離レースのドライバーに目を向けてみよう。これはヨーロッパでGT選手権とかツーリングカーで広く開催されているレースだ。このようなイベントでチームの重鎮となるには、自制心と頭を使うことが必要である。長距離レースの最中には、ドライバーはいかに速く走るかではなく、いかに遅く周回できるかを考えていかなければならない。あるドライバーにとってこれは不可能なことであり、レース中にスロー・ダウンすることがいつもフラストレーションの原因となる。その逸る気持ちはわかるが、これは許されることではない。
 チームマネージャーが求めている長距離レースのドライバーとは、機械的な感情、規律正しさ、必要なラップ・スピードを出せる能力、そして最も難しく重要なのは、遅いクルマを追い越すときに特に注意してトラブルを避けたり、絶対に競り合ったりしない人材だ。
 多芸で、偉大な才能を持つドライバーの見本は、1964年シーズンに私のために Cortina Lotusに乗った Sir John Whitmoreだ。
 John Whitmoreが英国のサーキットで Miniをぶっ飛ばすのしか観たことがない人には不思議で信じられないかもしれないが、彼は私の知る限りのドライバーの中で最も神経が細かく、よくコントロールできる安全なドライバーの1人だと言えば驚くだろうか。
 私はピットに座っているとき、Cortina Lotusを一番速く走らせることが出来る男は、数千マイルも離れた場所で Formula 1 Lotusを運転しているのだと自分に言い聞かせ慰めているのだ。
 ドライバーたちは、いずれも素晴らしい連中なのだが、私は時々彼ら無しに出来るものならやってみたいと思う。そうすればチーム・マネージャーの生活はもっと楽になるはずだ。



Sir John Whitmore in the 1964 European Touring Car Championship.


Racing management Alan Mann (1936-2012) Part5

 私がこれまで提示したチーム・マネージメントの問題は、参加申し込みや、移動日程、車両準備など明確なものにすぎない。ではドライバーを選択したり扱ったりするような、目に見えない問題を考えてみよう。
 ドライバーはチーム・マネージャーにとって身につまされる問題だ。選択するときに、運転の才能が必ずしも重要なファクターではないと聞いたら驚くだろう。私にできる最良の方法は、異なったタイプのレースにドライバーのどんな性質や能力が必要なのかを見極めることだ。
 イギリスで最も盛んで一般的なものは、数ラップの距離しか走らないスプリント・レースである。F1でもサルーンだろうとも、クルマとドライバーは最高スピードが出せる性能と能力が必要になる。もし、どちらかが欠けていたら、この種のレースで勝ち目はない。
 スプリント・レースでは、レース中に追い越して逆転する望みは少ないので、スタート・フラッグが下ろされた瞬間に躊躇していてはダメだ。さらにドライバーはいくら速くてもミスを犯しては、長距離レースのように挽回できる機会がないので速い意味がなくなる。スプリント・レースではドライバーの性格はそれほど重要視されない。ライバルよりも1ラップで 0.5秒速ければ、私はどんなドライバーだろうが目をつむることができる。
 往々にしてないがしろにされているが、ドライバーを採用するときに重要視することはテスト・ドライバーとしての能力である。どんなクルマでも、長時間のテストを行わずして、レースに望んだりすることほとんどない。したとしても、それでレースに勝ったことは聞いたことがない。今日の高度なコンペティションでは、新しいレーシング・カーを買って、すぐにレースに勝つことはできない。ドライバーとコースに合わせて調整したクルマは必ずいくらかスピードを上げることができる。
 これをやるためには多くのファクターを考慮しなければならない。例えばキャンバー、キャスター、トーインの調整。スプリングの硬さ、タイアの種類と空気圧、前後ロールバーの太さ、前後のブレーキのレシオ、どれだけオーバーまたはアンダーステアが必要なのか調べなければならない。

Racing management Alan Mann (1936-2012) Part4

 レース当日はスタート前の最後の瞬間まで気が落ち着く暇はない。ドライバーにレース中のポジション、ラップ・タイム、エンジン回転数の限度の指示、ドライバーの奥さんたちをタイム計測係とコーヒー係にまとめ、給油の規則をチェックして合致しているか確かめ、そして最後は、長靴を履いたピット・マーシャルが腕章をしていない1人のメカニックを放り出すのを、穏やかに思いとどまらせることとなった。
 我々のチームに関する限り、その日はとてもうまくいった。Boehringerと Glemserの乗る MERCEDES-BENZ 300SEに対抗して総合優勝を狙った。‘Autosports’誌は翌週次のように書いている。「彼らは疑いなくトップを争えたが、常識的にクラス優勝で満足した」。
 我々は Whitmore / Hegburn組が総合2位、クラス優勝、Taylor / Harper組が総合3位、クラス2位で満足した。どちらのクルマも同クラスの次点のクルマよりも 20分以上も早くフィニッシュしたので、かなりの優秀性を証明した。小説ならばこれでハッピーエンドとなるわけだ。しかし、面倒だがレース後の再車検にパスしなければならない。この時は問題がなかったが、時としてオフィシャルが何かを悪い方向に解釈することが多いのだ。トロフィーは夜の表彰式で渡されるのだが、ドライバーと私は2日後の火曜日にスタートする Alpen Rallyのためすぐに 960kmも離れた南フランスの Marseilleへ行かねばならなかった。しかし、いつも同じということはない。
 ところで、このたった1つのレースの概略で、びっしり詰まったレース・カレンダーの最中にどんなことが起こるか分かっただろう。この‘Nuerburgring 6h-Saloon Car-Grand Prix’では全てのことが予定通りうまくいき、レース結果も予期したとおり、しかも2台まとまってフィニッシュすることができた。しかし、いつもこんなに簡単にいくとは限らない。
 

Racing management Alan Mann (1936-2012) Part3


1964 SPA 24hr


 ‘Nuerburgring 6h-Saloon Car-Grand Prix’は日曜日に行われるが車検は木曜日の昼12時からなので、トランスポーターは遅くとも水曜日の夜6時までに到着していなければならない。
 すべての予定が詰まり、悪いことに、クルマも南フランスの Mont Ventouxのヒル・クライムを終わったばかりだ。Henry Taylorは2号車で成功したが、John Whitmoreのクルマはリア・サスペンションを壊して、ボディの後ろが酷く破損していた。
 ヒル・クライムの終了後、2台のクルマはさっさとトランスポーターに積み込まれ、Grenobleにある FORDのメイン・ディーラーに運ばれ、そこで元気の良い2人のメカニックによって新品のエンジンに換装されて、完全にメンテナンスされた。
 したがって、6月14日から17日の4日間に、2人のメカニックはエンジンとスペア部品、それにフランスの通関書類を持って Grenobleまで 800kmを走り、Mont Ventouxにいた他の2人は徹夜で運転して、クルマを Grenobleに届けた。2台の Cortina Lotusはバラされて組み直され、640km離れた Nuerburgringに運ばれた。とても忙しない4日間であった。
 そこで予期しない事態が発生した。ヨーロッパのイベントの車検はとても忍耐が必要なのである。「注意」というドイツ語しか知らないのに、ドイツ人のレース役員に「ドイツのチャンピオンが乗る Cortinaは32ガロン積むのに、お前のところはなぜ公認ギリギリ一杯の22ガロンしか積まないのか」という難問を説明することを想像すれば、逃げ出したくなるのは私のほうである。大変な忍耐力が必要なのである。
 レースは、現在フォーミュラーのグランプリに使用されている Nuerburgringの経験のあるドライバーにとっても問題がある 170のコーナーと急傾斜を持つ1周 22.8kmの北コースで行われた。幸いなことに、我々のドライバー達はそれ以前にレース経験があったので、2、3周もクルマをテストするだけで十分であった。

Racing management Alan Mann (1936-2012) Part2


Alan Mann was also great team leader for the drivers of the cars he prepared. He is seen here at the 1964 Spa 24hrs, in discussion with a group of his drivers. Left to right:Tony Hegbourne, Henry Taylor, Frank Gardner, Peter Harper in dark glasses, Alan Mann, Sir John Whitmore.

 チーム・マネージメントは多面的な活動なので、教科書のように理路整然と書き出すわけにはいかない。しかし、その仕事の範囲を説明するには、ヨーロッパで開催される典型的なレースを例に、その最中に実際なにが起きるのか、スタートからフィニッシュまで一緒にお付き合い頂きたい。
 そこで私が選んだのは、1964年6月21日、有名なドイツのサーキットで行われた‘Nuerburgring 6h-Saloon Car-Grand Prix’である。我々はこの厳しいイベントに2台の Cortina Lotusをエントリーし、チーフ・ドライバーには、Sir John Whitmoreと Henry Taylorを採用した。さて、規則書には、レース中1人が4時間以上運転してはいけないことが記されていた。ということは、厄介なことに2人の副ドライバーを探さなければならないことを意味していた。
 これはそれほど簡単なことではない。同じ日の週末にはル・マンで24時間レースが開催されるので、大勢の一流ドライバーはそちらに流れるので頼むことは出来ないのが大きな障害であった。そのために Tony Hegburnと Peter Harperと話がまとまるまでに、私は何度も電話をしたりして、大変な時間がかかった。
 規則書と申込書は大会の1ヶ月前に入手した。もちろんドイツ語である。まず直ちに英語に翻訳してから、これを注意深く読むことにした。どこかに落とし穴があるかもしれない。
 エントリーは Royal Automobile Clubの承認を得て、6月1日までに1台につき150ドイツ・マルクの申し込み料を添えて主催者に提出しなければならない。これもただ小切手を送るのではなく、イングランド銀行の高飛車な怒りっぽい事務員に換算してもらう必要があるのだ!
 また宿泊先の確保もしなくてはならない。同時に3人のメカニック、4人のドライバー夫妻、それに私の分までだ。この問題が一番大変で、BMCや SAABその他がアイフェル山中のトップクラスのホテルから村長の娘の家まで、ベッドを先に確保しているのだ。もっとも近い町から 32kmも離れた山中にあるサーキットで行われるイベントでは、適切な宿を確保するのは大問題だ。しかし、サーキットから離れた場所でリラックスするのはドライバーの精神健康面でも良い話だが、ドライバーもあまり離れた場所は嫌がるのが難題である。